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- 石屋町(近世~近代)とは
「石屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 石屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名丸太町通寺町西入の町寛永14年洛中絵図に「石屋丁」と見えて以後,町名の変化はない江戸期は禁裏六町町組の桑原町六町組に属し,13軒の軒役を負担明...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7373704]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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石屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名木屋町通三条下ル東入の町町名の由来は「坊目誌」に「開発の頃,水運に依り,石材を持ち来り,販売せしもの居住せしより町称とす」と見えている寛文12年洛中洛外大図には,すでに現町名が見えているが,町名の有無はともかく,慶長年間の高瀬川開削により,この地域は早くから開かれていたと考えられる「宝暦町鑑」には「瑞泉寺の南の辻を東へ入町は車屋有則此石屋町の内也」とあり,当時車屋のあったことが記されているまた当町には,浄土宗西山派の瑞泉寺がある寺号は豊臣秀次の法名瑞泉院に由来する文禄4年,さきに高野山で自害させられた秀次の遺児や妻妾は三条河原で斬られたが,慶長16年,角倉了以が高瀬川を開削するに際し,一寺を建立し秀次らの菩提をとむらったのが始まりである「宝暦町鑑」には「此町(石屋町)に瑞泉寺と云浄土宗あり,俗に畜生寺と云,関白秀次公并女中方の塚有」と記されている江戸期は下中筋組の下河原卅二町組に属し,15軒の軒役を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】6番組,同5年第6区と改称,同25年第6学区に編成明治12年下京区石屋町,同22年京都市下京区石屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区石屋町となり現在に至る |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」