ケータイ辞書JLogosロゴ 今林荘(中世)


京都府>園部町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。丹波国船井郡のうち。康治2年4月11日の丹波国諸荘園目録に「今林」とあり,皇太后宮御領であった(陽明文庫所蔵兵範記仁安4年裏文書/平遺2511)。この皇太后宮は摂政藤原忠通の娘聖子(のちの皇嘉門院)で,崇徳天皇の皇后であった。その後「山槐記」久寿2年正月5日条に「延勝寺今林庄」とあり,近衛天皇の御願寺延勝寺に寄進されたものと思われる。一方「台記」久安6年11月30日条にも「丹波国今林庄」が見え,領家職が藤原宗通から子息重通に譲られている。下って康和3年3月12日の文殿廻状に当荘の雑掌として「高倉中将〈広通朝臣〉雑掌」とあり,重通6代の孫広通まで領家職が伝えられていたことがわかる(師守記,貞和5年8月裏文書)。鎌倉期には,「明月記」建保元年8月16日条に「丹波今林庄」と見え,隣荘より乱入されている。また「経俊卿記」正嘉元年5月21日条にも「尼真阿申,今林庄買地事」とあり,院庁の評定の議題になっている。正和2年5月27日の六波羅下知状によると,「今林以下傍庄」について雑掌と地頭とが相論している(仁和寺文書/鎌倉幕府裁許状集下)。南北朝期の延文元年5月25日の天台座主遵道法親王令旨に「日吉社大般若転読料所丹波国今林庄正末名間事」とあって,荘内に日吉社領が含まれていたことが知られ(華頂要略),同2年9月10日の今林荘文書出入注文によれば,荘内に「近宗」「余田」があったことがわかる(壬生家文書/図書寮叢刊)。貞治4年10月7日の丹波守護山名時氏遵行状では小林左近将監宛てに「丹波国今林庄寺村寄合重行名内田地伍町事」に対する中沢恵綱の違乱を停止し,東福寺永明・慈観両庵雑掌明真に沙汰付けするよう命じている(保坂潤治氏所蔵文書/大日料6-27)。下って戦国期には三条西実隆領となり,「実隆公記」に当荘が散見する。文明7年8月27日,塩見某が「丹州今林庄」の一部を買得したと称している。同8年12月10日,当荘の上使臨崇は現地に下向し,翌9年閏正月12日に帰洛した。同月27日「丹州今林庄之内十石之分」が竜安寺に寄進され,また同15年12月6日,実隆は100石を聖果院に寄進している。ちなみに同16年正月16日条にはこの聖果院主全琦首座の自害が記されているが,「今林事等彼仁奉公之儀」であったという。また同17年3月17日には当荘より「二緡」が送られてきている(以上,実隆公記)。「蔭凉軒日録」長享2年7月2日条によれば,「西芳寺領所々目録」が見え,その中に「同国今林庄内行定名・守里名〈同上〉,両所,一斛五斗」とあり,西芳寺領が含まれていた(大日料8-22)。再び「実隆公記」永正6年10月6日条に「丹州今林事石田弾正〈馬廻衆〉,当時知行也」とあり,当荘が石田弾正の知行となっているが,12月16日条では実隆は「本所分」が石田弾正に押領されたことを幕府に訴え,幕府は「塩見某」の当荘の買得を認めず返却させている。そして12月29日には,「今林庄公事物炭一荷」が到来しており,喜んでいる。同7年10月27日条に「自今林庄年貢米弐石」とあり,大永3年12月18日条によると当荘の年貢米は年間10石であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7373983
最終更新日:2009-03-01




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