岩本村(近世)
江戸期〜明治7年の村名。綴喜【つづき】郡宇治田原郷のうち。元和9年から禁裏御料。村高は「正保村高帳」515石余,「元禄郷帳」528石余,「享保村名帳」515石余,「天保郷帳」528石余,「旧高旧領」では515石余。当村の出身者に日向掾に補せられた宮大工柴田新八郎がいる。彼の主な仕事には,禁裏御所内の建物修理,文政4年当村の巌松院本堂・庫裏・客殿,天保年中東本願寺本堂・大門(安政5年炎上),嘉永元年当村の双栗天神社本殿,嘉永2年紀伊高野山金堂再建(昭和初年炎上)がある(宇治田原町史)。真言宗巌松院は聖徳太子の開創と伝え,寛永12年如覚円光禅師を中興開山とする。幕末期から明治初年にかけて同寺の道珠は寺子屋教育を行っている。鎌倉初期の高野山の僧道範の消息を利用した聖教類,天福元年康覧作の千手観音像,清凉寺式釈迦如来像などを同寺は蔵している。寺院にはほかに,金剛院真言宗真言院,今は廃寺となった浄土宗極楽寺末地蔵寺・同宝国寺末光明寺および同長福寺,浄土真宗西本願寺末石倉道場・同法泉寺があった。双栗天神社の奥の院は大岩を神体としており,霊神がこの岩上に降臨して光明を放ったと伝えられる。なお,中世には岩本城があったといわれ,その場所から奈良期の平瓦を出土。明治元年京都府に所属。同5年の戸数81(市町村合併史)。同7年岩山村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7374050
最終更新日:2009-03-01