ケータイ辞書JLogosロゴ 宇治郷(近世)


京都府>宇治市

 江戸期〜明治22年の村名。久世郡のうち。「正保村高帳」では3,482石余,「元禄郷帳」によれば3,427石余,「享保村名帳」は3,698石余,「天保郷帳」では宇治郡乙方村を併合して3,814石余となり,「旧高旧領」では3,620石余と見える。大部分は幕府領であり,宇治代官支配が行われていた。一部は,代官・茶師頭取を世襲した上林六郎・上林又兵衛両家に給され,上林六郎系は390石,同又兵衛系は220石余となっている(元禄村別領主帳・享保村名帳・旧高旧領)。中世以来,宇治茶生産の中核地であり,江戸期を通じて郷内の宇治茶師数十家が,御物【ごもつ】・御袋【おふくろ】・御通【おとおり】の3つの茶師仲ケ間を組織し,禁裏・幕府・諸侯などの御用茶の調製にあたっていた。幕府による宇治御茶壺道中は,これらの茶師の存在に立脚して行われたものである。上林両家は茶師各家の統率者として存在し,宇治茶業界を主導したのである。郷内の耕作地193.3町歩余のうち,過半におよぶ105.6町歩余が茶園として拓かれていた(上林家前代記録)。残りの田畑のうち,常に植付可能な水田は惣高の1割ぐらいであったといわれる(住山時之介家文書)。しかし,宇治郷は茶価の統制,宇治川の水害の頻発,120軒余を焼失した寛文10年の火災や元禄11年の大火などによって,次第に疲弊衰退し,元禄3年5,267人・1,176軒が(元禄覚書),正徳5年には1,016軒・4,401人(京都大概覚帳),文化13年には1,632人・533軒に減じている(住山時之介家文書)。また宇治郷は,御茶壺道中に関わる夫役をもつため,国並夫役・助郷役を免除されていた。郷内には,江戸前期に26,後期には28の町が存在し,地域構成の単位としてそれぞれ1名から数名の町代が置かれていた。町代は各町の代表者であるとともに,郷名主・年寄を補佐して郷の自治に参与した。これらの町は江戸期においても変遷をみたが,明治維新以降は通称地名となった。明治元年京都府に所属。同5年の戸数は521(市町村合併史)。「府地誌」によれば戸数701・人数3,004,税地総計251町1反余,うち田69町8反余・畑156町2反余,農茶業に従事するもの519戸に及んでいた。明治14年郷内中心地を宇治町と改称,周辺部は宇治郷として存続。同21年の戸数184(市町村合併史)。同22年宇治町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7374121
最終更新日:2009-03-01




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