ケータイ辞書JLogosロゴ 後野村(近世)


京都府>加悦町

 江戸期〜明治22年の村名。丹後国与謝【よさ】郡のうち。はじめ宮津藩領,寛文6年幕府領,同9年宮津藩領,延宝8年幕府領,天和元年以降宮津藩領。村高は「慶長郷村帳」「延宝郷村帳」586石余,「天和村々高帳」では河守組に属し814石余,「宝永村々辻高帳」同高,「享保郷村帳」824石余,うち新田改出高10石余,「天保郷帳」同高,「旧高旧領」814石余。幕末の草高814石余,年貢率は定免5割5厘5毛,高掛物445匁余,稲木運上銀等143匁(与謝郡誌)。慶長6年京極高知への献上物に「精好絹紬織,後野村久右衛門御用被仰付」とある(岩屋村誌)。享保7年当村の木綿屋六右衛門らにより丹後ちりめんの織法が導入され,享和3年の「御領分縮緬屋御鑑札御改帳」では当村の機数120,ほかに帯機2,「与謝郡誌」に文化年間の機数35,嘉永年間81,文久年間83とある。慶応2年の「糸中買手先人別控」では後野村15人となっている。こうした背景のもとに,江戸期から地内の愛宕神社の例祭には,各町内から豪華な芸屋台が巡行し,舞台では子供歌舞伎が演じられた。この祭りは京都との交流による祇園祭の影響と伝えられる。当村の鋳金業は中世より存在したとみられ,「加悦町誌」によれば,当地の赤野勘左衛門が京都知恩院の梵鐘を鋳造し,鍋屋才助が文永3年に加悦町宝巌寺の梵鐘,明和4年に同町実相寺の梵鐘などを鋳造し,ほかにも安永2年に加悦町福井庵梵鐘,天明7年に加悦町浄福寺梵鐘,寛政4年に算所【さんじよ】村一念寺,寛政9年に後野村宝勝寺梵鐘が鋳造されている。幕末の家数187,うち高持百姓72・水呑百姓104・出家2,人口918(版籍調書/与謝郡誌)。明治4年宮津県,豊岡県を経て,同9年京都府に所属。同8年の反別は田40町余・畑7町余(地券事務日記)。同21年の戸数240,国税992円余・地方税361円余・町村費100円余(市町村合併史)。同22年加悦町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7374141
最終更新日:2009-03-01




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