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- 梅屋町(近世~近代)とは
「梅屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 梅屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名麩屋町通蛸薬師下ルの町寛永14年洛中絵図に「梅や町」と見えて以後,「都すゞめ案内者」に「むめや町」と記されている以外ほかの洛中絵図・町鑑類に変...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7374234]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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梅屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名車屋町通御池下ルの町御池通の拡張に伴い現在は町の北側の大部分は御池通寛永14年洛中絵図に「梅屋丁」と見えて以後,中井家系の絵図では町名に変化はないが,「京雀」「京雀跡追」には「車屋丁」と見え,また,木版図系の絵図である寛永18年以前平安城町並図では「つきぬけ」,承応2年の新改洛陽並洛外之図では「車屋町ノつきぬけ」とある当町が車屋町と呼ばれていたのは,「京雀」が記すように,車借の家が多かったからであろう当町のすぐ南,姉小路通東洞院西入の町も車屋町と呼ばれているが,車屋町通がそもそも車借が多くあったため名付けられた通り名であったから,周辺に類似の町が存在したものと考えられるまた,「つきぬけ丁」と呼ばれたのは,車屋町通の道路景観によるものである江戸期当町には車借が多かったのはもちろんであるが,その他,八こうぬのといやもあった(京雀跡追)江戸期は上艮組の二三之組に属し,21軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】26番組,同5年第29区と改称,同25年第24学区に編成明治12年上京区梅屋町,同22年京都市上京区梅屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区梅屋町となり現在に至る |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
梅屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名丸太町通新町西入の町町の中央を南北に釜座通が通る寛永14年洛中絵図に「梅屋町」と見えて以後,中井家系の絵図では町名に変化はないが,「京雀跡追」や木版図系統の享保頃のものまでは「かねまき町」と記されている現町名に固定していくのは,ほぼ宝暦年間以後と思われる「京雀跡追」によれば,江戸期当町には,著名な絵筆屋であった徳兵衛の店や,御たかの鈴やなどが存したという明治6年には,それまで小川通竹屋町東入にあった梅屋小学校が,校舎が狭小となったため,当町に移転し現在に至っている江戸期は上中筋組の廿四町組に属し,24軒の軒役を負担明治2年安禅寺町を編入同年の町組改正から上京【かみぎよう】第20番組,同5年第23区と改称,同25年第18学区に編成明治12年上京区梅屋町,同22年京都市上京区梅屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区梅屋町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
梅屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名東武者小路梅屋町ともいう烏丸通武者小路西入の町町名は当町内にあった茶寮の庭中に大きな梅の木があったことによるという(府地誌)「元亀米賄帳」には「東武者小路」と記され,江戸期に入って,「宝暦町鑑」も当町を東武者小路と記す江戸期,町内には医師名古屋長意・白粉所つぼ屋九兵衛らが居住(京羽二重)江戸期は禁裏六町町組の観音堂町五町組明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】13番組,同5年第10区と改称,同25年第2学区に編成明治12年上京区梅屋町,同22年京都市上京区梅屋町となり現在に至る大正14年の世帯数21・人口92,昭和40年の世帯数42・人口170... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」