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- 扇町(近世~近代)とは
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扇町(近世~近代) 江戸期~現在の町名寺町通今出川下ルの町もと松屋町通丸太町にあったが,元禄16年所司代邸用地となったため隣町の要【かなめ】町とともに寺町通今出川下ル東側の寺院跡地に替地となった当地はもと豊臣秀吉によって寺町建設が行われた地にあたり,寛永14年洛中絵図では寺町通に沿って真如堂・東北院・極楽寺・正定院・迎勝寺・芝薬師大興寺・法性寺が北から順に並んでいた元禄5年の火災により,翌年正定院・法性寺は川東の田中村へ,その他は洛東の吉田・浄土寺村辺へ移転し,跡地が替地として与えられた扇子町(文政三年軒役),扇屋町(宝暦町鑑)とも称した江戸期は聚楽組枝町の真如堂六町組明治2年要町を合併同年の町組改正から上京【かみぎよう】29番組,同5年第12区と改称,同25年第9学区に編成明治12年上京区扇町,同22年京都市上京区扇町となり現在に至る明治34年3月寺町通に京都電気鉄道の路面電車が開通したが,今出川寺町~河原町丸太町間に市電が開通するのに伴って大正13年9月末に廃止された明治44年実施の産業別人口統計によれば,当町では交通業を含む商業従事者の比率が高くなっている世帯数・人口は明治44年37世帯・163人,大正14年51世帯・186人,昭和40年40世帯・138人 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
扇町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は飯田城下の一町で,町人町明治8年飯田町,昭和12年飯田市飯田の通称町名となり,同27年からは同市の正式町名飯田城の西,知久町の南裏町通りにあたる文化9年藩主堀親忠が,知久町南裏から長光寺小路に至る通路に扇町と名付けた長光寺小路は坂西長重の時に建てられてのち廃寺となった寺院名にちなむこの時まで侍屋敷町であったが,堀氏時代の半ばに至り,侍屋敷も減じて寂れてきたので,町屋とし,扇のように末広くと,佳名を付けたという(飯田万年記)愛宕坂により松川方面に通じていたので,坂の頭に木戸を置き,城下町へ入る区切りとした昭和22年飯田大火で全町焼失もとは両側町であったが,復興に当たり愛宕坂に面した片側は防災地帯として家を作らず,片側町とされ,南から扇町公園・飯田市営動物園・扇町有料駐車場が作られた劇場大松座のあとに橋南コミュニティ防災センターが建てられた昭和61年の世帯数23・人口77... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
扇町(近世~近代) 江戸期~昭和6年の町名明治44年まで深川を冠称築地町24か町の1つ元禄14年,宇野屋孫八郎・三川屋権兵衛・市川屋藤兵衛ら3人に払い下げられ,同16年に扇町と名づけられた正徳3年町奉行支配となる(備考)化政期の家数13軒(町方書上)材木問屋の木置場であったので木場と俗称した明治元年東京府,同11年深川区に所属同5年の戸数13・人口58(府志料)昭和6年木場4丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」