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岡田村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岡田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岡田村(近世) 江戸期~明治9年の村名庄内地方,庄内平野北部,月光川中流左岸に位置する当村が周囲より高い岡になっていることによる地内には,社寺の灯油の免田であった油田があるはじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうちはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領遊佐郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では岡田興野村として11石余,「天保郷帳」75石余,「旧高旧領」73石余,明暦2年の検毛帳(飽海郡誌)では74石余享和3年の御郡中村数家数人高控帳(遊佐町,斎藤家文書)によれば,家数7軒・人数25幕末期の「弐郡詳記」では免5ツ5分,家数4軒当村の草分けは肝煎六左衛門で,その後分家の三吉と2軒になった茗荷畑・苦竹籔の所は古川跡,茗荷畑の大ケヤキの所は船着場であった天保14年庄内藩が印旛沼疎水工事を命じられた時,肝煎六左衛門は監督として加わり,帰国後この経験を活かし日向川新川掘割工事の設計にあたった皇太神社は大日孁貴命を祀り,「あまのじゃく」といわれる地蔵尊の木像がある六左衛門の庭にあるムクノキは印旛沼疎水工事の時持ちかえったものである(遊佐町史資料5)鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年六日町村ほか4か村と合併して遊佐町村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岡田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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岡田村(近世) 江戸期~明治9年の村名津軽郡田舎庄のうち津軽平野北部,岩木川支流十川右岸の平坦地に位置する弘前藩領「平山日記」に「同年(寛永)之頃万五郎屋敷村立之節,万五郎と申仁派預ニ付,名と成る,是ハ往還より西之方,東之方へ桜田村派申候,今真黒屋敷岡田と改る」とあり,当村は寛永年間以降開発されて成立したことがわかるはじめは真黒屋敷村の枝村であったが,享保11年同村から分村して独立した(村名改称并新村創立調)村高は,「貞享4年検地水帳」では真黒屋敷村枝村とあり189石余(田175石余・畑屋敷13石余),「天保郷帳」171石余,「旧高旧領」197石余「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「稲葉」があり,枝村である当村の反別は田18町3反余・畑屋敷3町1反余元禄3年には広田組に属し,村位は上(平山日記)用水は広田堰を利用,元禄11年洪水による広田堰破損に際し,七ツ館・真黒屋敷・唐笠柳の各村とともに修復工事を行っている(同前)明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数25(国誌)同9年稲実村(もと真黒屋敷村)の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」