ケータイ辞書JLogosロゴ 加悦荘(中世)


京都府>加悦町

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。丹後国与謝【よさ】郡のうち。賀悦荘とも書く。関白渡領。建武4年7月28日付吉川経久軍忠状によれば,同26年,但馬・丹波・丹後の南軍が「加悦庄」に攻め寄せ,経久らは同荘「市庭北縄手」で防戦,首1つを取った(吉川家什書/大日料6-4)。次いで康暦元年9月晦日,二条師嗣が「賀悦庄地頭代」に宛てて,守護方給人を退け,領家職所務を全うすべきことを命じているが(日本古文書学上),地頭・領家両職は実相院が有していた。長禄3年10月25日付の実相院門跡領目録には門跡領八か所の1つとして「丹後国賀悦庄」と見え,この八か所は養徳院・妙雲院より門跡興隆のため寄進されたものとしている(実相院文書)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」には「大雄寺領〈丹州賀悦庄段銭〉」4貫880文が見えるが,大雄寺領の内容は不詳。至徳3年8月8日には「丹後国賀悦庄領家御年貢 合伍貫文」を実相院が受け取っており(実相院文書),応永28年10月10日には「丹後国加悦庄領家御年貢」3,000疋を(大館)常安が請負っている(九条家文書/図書寮叢刊1422)。荘内は幾つかの名【みよう】に編成されていたらしい。永享3年10月10日,海老名了元と大館常安が当荘内近重名のことで争い,同年10月17日,「殿下御領賀悦庄領家職」を摂政家で直務すべき旨の御内書が出されている(室町家御内書案)。この相論については未詳だが,永享5年5月5日には当知行の旨に任せて,当荘が実相院に安堵されており,長禄2年12月14日には「地頭実相院門跡御代官」として当荘領家職を知行し,年貢毎年15貫文を沙汰すべき旨の摂関家御教書が実相院坊官按察法橋に出されている。その後,永正6年10月9日,実相院門跡雑掌に当荘を前年いったん他人に仰付けたが,門主が入室したので返付する旨の幕府奉行人連署奉書が出されているが(実相院文書),以後,実相院関係の史料には見られない。「丹後国田数帳」には「一 加悦庄 百六十三町八段二百四十八歩 実相院殿」と見え,「丹後御檀家帳」には「かやの御城」「かやのいちばにて」「かやの松の下」「かやの金屋村」「かやのうつ山寺」が見えている。荘域は未詳だが,加悦町加悦・算所【さんじよ】・加悦奥・後野【うしろの】・金屋の一帯を含むものと推定される。後野には小字松ケ下・上市が,加悦には小字中市があり,加悦城は算所に,うつ山寺は金屋にあった。なお,「親元日記」寛正6年2月2日条によれば,幕府政所が丹後の実相院領の大口織りの在所に大口袴を注文しており,当地が室町期にすでに絹織物の一中心地であったことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7375375
最終更新日:2009-03-01




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