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菊屋町(近世) 江戸期~明治2年の町名新麩屋町通仁王門下ル東側の町宝永5年の大火後,麩屋町丸太町下ルから住民が愛宕【おたぎ】郡岡崎村の田畑地に移転して開かれた(坊目誌・平安城東西南北町並之図ほか)はじめ北部を新麩屋町,または菊本町,南部を大宮町と称し,天保以後合併し菊屋町となったという(坊目誌)「宝暦町鑑」「文政二年軒役」には菊本町と見える町内の頂妙寺はもと高倉下立売(現京都御苑内)にあったが,寛文13年に当地へ移転同寺の南を東西に通る仁王門通は,移転当時の絵図には描かれず,開通は宝永5年の大火後のことと考えられる江戸期は下一条組枝町の川東拾壱町組明治2年大菊町となる(布令書)「府地誌」「坊目誌」では同6年と記す |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
菊屋町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷南組のうち「南傾城町・同東之筋・同中之町 但,菊屋町ト成」るという(初発言上候帳面写/大阪市史5)唯一の公許遊郭である新町が開かれて,当町域の遊所は移転現存最古の寛永16年の宗旨改帳では町年寄きくや友知とあり,その菊屋が町名になったと思われる(大坂菊屋町宗旨人別帳3巻)明暦元年の水帳では菊屋町と見える(南区志)元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば,家数23軒,役数27,うち無役数1(年寄),年寄は播磨屋吉右衛門「宝暦町鑑」に「心さいばし筋ノ丁,八まん筋南へ道頓ぼり少内迄」の町とある明治2年大阪南大組に所属同5年心斎橋筋1~2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」