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木村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国御野郡のうち笹ケ瀬川・旭川両河川下流の河間の平地に位置する建久9年12月日の後鳥羽院庁下文写(東大寺続要録)の野田荘の四至に見える新堤保は当地に比定されることから,平安末期以降新墾村として開拓されたものか宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」297石余,「天保郷帳」335石余,「旧高旧領」334石余また「備陽記」では,高297石余,反別18町9反余,家数22・人数97岡山藩領手鑑では田301石余・畑30石余,蔵入地と家臣5名の給知,家数21・人数80,牛7,樋2,橋20,肥船6用水は旭川を水源とする西川用水から分水なお寛文年間の寺院淘汰策で日蓮宗台竜山真福寺が廃寺となっている(撮要録)明治4年岡山県に所属同8年下中野村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治7年の村名上総国天羽郡のうち湊川下流右岸に位置する佐貫藩領村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに338石余「上総国村高帳」では家数44享保11年以降助郷役が課せられた(黒坂日記/富津市史史料集2)文化8年の松平定信による竹ケ岡村御台場・陣屋普請に際して,人足の割当てがあったため,折からの助郷負担増大とあいまって助郷争論が起こった(三浦家文書/富津市史史料集1)嘉永5年に至って,助郷負担増大による村々難渋に対して,25石が除高となった(椙山家文書/同前)江戸後期には善福寺住職・椙山氏が寺子屋を開いていた明治6年千葉県に所属寺院は曹洞宗善福寺明治7年更和村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
木村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」