ケータイ辞書JLogosロゴ 草内郷(中世)


京都府>京田辺市

 鎌倉期〜室町期に見える郷名。山城国綴喜【つづき】郡のうち。永久元年12月日付の玄蕃寮牒案に「草内中嶋」「草内中村里」とあり,「多前陵戸田四至余」として「草内中嶋一里卅五坪二段」と見える(柳原家記録/平遺1801)。郷名としては,文治2年9月5日付の源頼朝下文に「山城国……草内郷」とあるのが初見(賀茂注進雑記)。この下知については,文永11年頃と推定される山城富野郷下知状目録にも見え,「草智郷」など6郷に対して「停止武士妨,可勤仕社役……富野郷之外五ケ所,全所不被補地頭職也」と見える(蓬左文庫所蔵金沢文庫本斉民要術巻9・10裏文書/鎌遺11608)。はじめ賀茂別雷社領。寛喜2年8月日付の春日神人紀高綱陳状案に「草内講衆」の名が見えるが(大和福智院文書/鎌遺4016),草内講については不詳。応永13年8月の石清水八幡宮寺政所下文に「草内郷十人」とあり(放生会成文/大日料7-8),石清水社の綱引神人役を負担したことが見え,室町期には石清水社領であったと推定される。永享4年5月25日付の幕府奉行人奉書に「一万部御経料所」として「草内郷飯岡」とあり(室町家御内書案),郷の範囲に飯岡が含まれていた。また,「伺事記録」の延徳2年9月15日条に「御経料所御年貢減少」の荘園の1つとして「山城国草内飯岡其地下人成諸家被官不承引之旨大館刑部大輔注申之」と見える。寛正6年11月の稲屋妻公文追討の幕府奉書に薪・田辺・普賢寺とともに当郷名主沙汰人中の宛名が見え(親元日記),現在の京田辺市がこの4郷にほぼ分かれていたと推定される。その後は郷の所見はないが,「多聞院日記」天文10年3月4日条に「田辺ト草路ハ一円別会一人知行」と見え,興福寺別会五師の所領の存在が知られる。また,天文21年2月12日付の大館晴光知行目録案にも,晴光の知行分として「一 城州草内飯岡河原村」と見える(石清水文書6/大日古)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7375808
最終更新日:2009-03-01




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