- JLogos検索辞書>
- 五箇荘(中世)とは
「五箇荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 五箇荘(中世) 戦国期に見える荘園名加賀国河北【かほく】郡のうち石川郡にも五箇荘があるが,両郡のそれを1荘とする説(三州志)と別の荘とする説(加賀志徴)があるその荘域は,金腐川を南限とし,現在の金沢市岸川町から琴町,津幡【つばた】町東南隅の舟尾【ふのう】・常徳地区を結ぶ線を北限とし,東は越中境,西は河北潟までの範囲また石川郡の五箇荘は現在の御影橋を中心とする犀川の両岸を含み,糸田・増泉までの地域永正2年10月9日の足利義澄御内書案に室町幕府料所であった「加州五箇庄」を伊勢貞亮に与えたとあるのが初見(御内書案)その後,「天文日記」天文5年9月28日条によれば将軍家御台所料所五箇荘の代官佐子局の意をうけた下代官興禅軒が一向一揆によって不知行となった当地の知行回復を本願寺証如に依頼し,証如も,これに応えて奉書を現地などへ発給したが,使者は現地に入ることができず,同年12月3日に本願寺証如は再度折紙を発した天文6年2月16日条にはこの証如の命を現地が「興禅軒にてハ,いやと申」して拒否していることが見え,代官が五箇荘に入ったのは同年6月20日のことであったなお,「天文日記」天文6年10月3日条には「加州河北郡五ケ庄内倶利迦羅長楽寺」と見える |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五箇荘(中世) 戦国期に見える荘園名加賀国河北【かほく】郡のうち石川郡にも五箇荘があるが,両郡のそれを1荘とする説(三州志)と別の荘とする説(加賀志徴)があるその荘域は,金腐川を南限とし,現在の金沢市岸川町から琴町,津幡【つばた】町東南隅の舟尾【ふのう】・常徳地区を結ぶ線を北限とし,東は越中境,西は河北潟までの範囲また石川郡の五箇荘は現在の御影橋を中心とする犀川の両岸を含み,糸田・増泉までの地域永正2年10月9日の足利義澄御内書案に室町幕府料所であった「加州五箇庄」を伊勢貞亮に与えたとあるのが初見(御内書案)その後,「天文日記」天文5年9月28日条によれば将軍家御台所料所五箇荘の代官佐子局の意をうけた下代官興禅軒が一向一揆によって不知行となった当地の知行回復を本願寺証如に依頼し,証如も,これに応えて奉書を現地などへ発給したが,使者は現地に入ることができず,同年12月3日に本願寺証如は再度折紙を発した天文6年2月16日条にはこの証如の命を現地が「興禅軒にてハ,いやと申」して拒否していることが見え,代官が五箇荘に入ったのは同年6月20日のことであったなお,「天文日記」天文6年10月3日条には「加州河北郡五ケ庄内倶利迦羅長楽寺」と見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五箇荘(中世) 南北朝期~戦国期に見える荘園名伊勢国河曲【かわわ】郡のうち建武2年の太政官符(御鎮座伝記裏文書)に見え,建武政権より伊勢神宮に寄進された北条氏一門没官領の1つ「応仁略記」に世保(土岐)政康に対し,将軍義勝が「不便におぼしめし,伊勢国五ケ所と云所を安堵しけり」とある「蔭涼軒日録」長享2年6月8日条によれば,相国寺領で,この時長野氏が大挙入部したため,亀泉集証と宣都寺は堀河局の幹旋によって打開しようとしている堀河局は先代長野氏とは音信があったが,当主とは疎通と述べ,これを拒否しているその後も堀河局と交渉し,遂に彼女の「一行」を得るに成功しているが長野氏の押領を排除できたかは不明(蔭涼軒日録長享2年6月10日・11日条)大永元年代官として奉公衆進士十郎左衛門が補任されており,幕府もこれを認めているが,その後,進士は一度改易されたようで,天文6年,「先年之筋目」を以ってふたたび進士長門守が補任されている(鹿苑日録天文6年4月25日条)比定地未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」