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西方寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方寺村(近世) 江戸期~明治17年の村名越前国坂井郡のうち坂井平野,九頭竜川下流右岸に位置するはじめ福井藩領,貞享3年幕府領,文政3年からは福井藩領村高は,「正保郷帳」で316石余うち田方105石・畑方211石余,「元禄郷帳」「名蹟考」「天保郷帳」ともに373石余,「旧高旧領」376石余木部堤防に囲まれた鬼辺郷17か村の1つで,寛政7・8年堤防に盛土をしたため,水害をうけた周辺の村から訴えられている用水は石塚用水井堰を利用「名蹟考」によれば,枝村に舟津・北兵庫・市垣内・吹屋垣内・石塚,社寺に春日社・加茂明神・真宗大谷派源徳寺があり,由良越前守光氏を城主とする西方寺城があったと伝えるが城跡は不明というなお「旧高旧領」の村高のうち,2石余は源徳寺除地となっている明治4年福井県,以降足羽【あすわ】県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属「足羽県地理誌」によれば,戸数37・人口171(男97・女74),馬2,田7町・畑9町余,物産は木綿・布同17年木部西方寺村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
西方寺村(近世) 江戸期~明治8年の村名能登国珠洲【すず】郡のうち能登半島北東部,鵜飼【うかい】川下流に位置する村名はかつて,天台宗の古刹西方寺があったことに由来する中世の珠洲古陶の西方寺窯跡が2基あり,うち1基は焼成室の大半の天井部が完存しており,窯の構造を伝える貴重な資料となっている加賀藩領承応3年の村高89石余寛文10年村御印の村高113石,免5ツ4歩,山役30匁安永9年の村高113石鎮守に穴穂社があった明治5年石川県に所属同6年の村高106石,戸数12(珠洲市十年誌)同8年広国【ひろくに】村・鳥越【とりごえ】村と合併,橿原【かしはら】村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」