ケータイ辞書JLogosロゴ 狭山荘(中世)


京都府>久御山町

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。久世郡のうち。鎌倉・南北朝期の狭山郷と石清水八幡宮との関係は不明であるが,その地理的関係もあって平安末期以降石清水八幡宮の支配を受けていたのであろう。下って応仁2年10月17日室町幕府奉行人連署奉書では,当国輩が狭山郷に乱入し,神人らを殺害するを止め,所務をまっとうするよう石清水八幡宮社務田中奏清に命じている。翌18日には管領細川勝元が内書をもって同じことを伝えており,さらに同20日には後花園上皇が院宣をもって,茂家の下知にまかせて神領をまっとうするよう命じている。これは応仁の乱に際して石清水八幡宮領狭山郷の違乱を停止する目的で公武両方から出されたものである。翌文明元年6月28日,細川勝元は内書をもって再び田中奏清に同様のことを命ずるとともに,上山城被官中にも煩を致さざるよう伝えている。永正8年3月16日には普賢寺今中房広が10か年の期限を限って狭山郷の代官職を請負っている。下って元亀2年9月27日には,織田信長は朱印状をもって御牧摂津守の違乱を停め当郷を石清水八幡宮に安堵しており,戦国期を通じて一貫して石清水八幡宮領であったことを知る。天正12年10月には上山城久世郡狭山検地帳が作成され総高648石5斗6升9合6勺が八幡宮領となっている(石清水文書)。この地に関しては狭山荘という呼称も見られ,その領有関係ははなはだ複雑であった。建武4年11月29日光厳上皇院宣によれば,奉膳信通の濫妨を停め山城国狭山荘の所務をまっとうするよう実相院僧正増覚に命じており,暦応3年正月27日の光厳上皇院宣案では,内膳司の訴を停め,狭山荘を増覚に安堵し,翌康永元年7月6日には重ねて同じことを命じている。これによって狭山荘が実相院領荘園であったことを知るが,それ以上のことは不明である(以上,実相院文書)。次いで御挙状等執筆引付に記された(観応3年)7月26日興福寺別当御教書には「□□(当寺)八講料所山城国狭山庄」と見え,この頃興福寺八講料所であったことはまちがいない。下って興福寺大乗院門跡尋尊の「大乗院寺社雑事記」には随所に興福寺領として狭山荘の名前が見えるが,これは「河内国狭山庄」(長禄2年12月9日条)と見え,当荘のことではない。「教王護国寺文書」所収の応永12年加賀注進状には「久世郡之内 さやま 三百五十貫文」と見える。この文書が「教王護国寺文書」に収められていることから,狭山は東寺の所領であったと考えられなくはないが,この注進状に書かれた小塩荘ほか4か所はすべて東寺領ではなく,狭山についても他にまったく所見がないから,東寺領とは考えがたい。また室町末期の状態を記した「太子依玉林抄」には「法隆寺末寺末庄等事 十八也」として,その1つに「佐山庄〈山城国〉」と見え,ここが法隆寺とも関係のあったことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7376477
最終更新日:2009-03-01




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