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- 下之町(近世~近代)とは
「下之町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 下之町(近世~近代)
江戸期~現在の町名御前通下立売下ルの町葛野【かどの】郡西ノ京村に形成された洛外町続町の1つ寛永14年洛中絵図では町並みが形成されているが町名は記されていないその...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7376880]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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下之町(近世~近代) 江戸期~現在の町名島原西新屋敷島原遊廓六町の1つ島原遊廓は寛永17年,六条三筋町(柳町)の遊里が,京都所司代板倉重宗の命により荒涼たる田野であった朱雀野に移転して成立(角屋文書・寛永後万治前京都全図・府下遊廓由緒)替地当時の町年寄は円雪という(角屋文書)延宝期の「朱雀遠目鏡」の挿図によると,喜兵衛・又十郎ほかの傾城屋が記されている享保9年,町内の菱屋七兵衛が居宅にて揚屋営業を願い出たが,他町での揚屋営業禁止を求める揚屋町と争論を起こしている(角屋文書)江戸期,公儀軒役は無役であった町内には,和泉国堺出身の住吉屋が当町に移住した際勧請した住吉神社がある同社は島原廓内の鎮守となり,明治6年いったん廃社となったが,同39年再建され中堂寺住吉神社の旅所となった(坊目誌)江戸期は下古京川西組離レ町西新屋敷,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】32番組,同5年第16区と改称,同25年第16学区に編成同12年下京区下之町,同22年京都市下京区下之町となり現在に至る明治3年には,従来西新屋敷傾城町がもっていた洛中の遊所茶屋を支配する特権が否定され,昭和33年公娼制度廃止により遊廓そのものが廃止された大正元年の世帯数38・人口218(男80・女138),昭和5年の世帯数52・人口313(男64・女249),同40年の世帯数169・人口406(男181・女225)人口増減率(昭和40~50年)34.2%減 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下之町(近世~近代) 江戸期~昭和45年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の西部,中堀と内堀の間に位置する東西は両堀に面し,北は中之町,南は栄町と接する古くは恵比須町と称した(備陽国誌)この古町名はえびす社があったことによるという(吉備温故秘録)宇喜多直家が沼の城から岡山に移ったとき,商人を集住させた町で,本陣があったが,いつの頃からか脇本陣になった(同前)明暦3年には富商鳥羽屋源太夫が居住(池田家文庫)貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(同前)によれば,高32石余・畝数1町3反余,徳米34石余・口米6斗余また元禄13年の地子米高は2石5斗余で,町の格を示す内町中8位宝永5年11月の大火で全焼(同前)嘉永7年の家数145,人数444うち男234・女210(旧岡山市史3)昭和7年の戸数102,人口642うち男344・女298(同前6)大正14年西大寺の天満屋が木造3階建の店舗を開設,県下百貨店の第1号となるなお同敷地あたりにもと魚屋九郎右衛門の屋敷があり,若き日の小西摂津守行長が同人の養子として入ったことから,のち摂津屋敷と呼ばれたという(吉備温故秘録)昭和45年表町1~3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」