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- 下横町(近世~近代)とは
「下横町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 下横町(近世~近代)
江戸期~現在の町名仁和寺街道御前西入の町葛野【かどの】郡大将軍村に形成された洛外町続町の1つ寛永14年洛中絵図には町家が描かれる町名は,宝暦年間に「大将軍下横町...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7376948]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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下横町(近世~近代) 江戸期~現在の町名城の東,鍛冶町の南,新町の西に位置する町江戸期は高崎城下新町支配下の1町で,明治10年独立,その支配を離れ,同22年高崎町,同33年からは高崎市の町名となる明治10年独立に際して前栽町を合併した(更正高崎旧事記/高崎市史)町名は新町の下の横町の意「高崎寿奈子」に「西ノ横町 長サ四拾九間五尺 但新町入口より也銭湯あり」と見える(高崎市史)町内には高崎城下で一番古い治承元年創建の曹洞宗白竜山興禅寺がある高崎城の前身の和田城の頃は城の三の丸にあったが,高崎城築城の時城外に出,現在地には天保10年に移った住職の全明鉄定は明治39年社会事業として高崎育児院を境内に開設,孤児を養った同院は大正初年まであったまた曹洞宗東陽山向雲寺がある現甘楽【かんら】町甘引の向陽寺末寺で,高崎城築城の頃の創建といわれる寺の南は高崎城の遠堀となっている明治9年の宅地4,250坪2合5勺・畑3反21歩(更正高崎旧事記/高崎市史)同21年の「名称区域」では戸数97・人口325 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下横町(近世~近代) 江戸期~昭和16年の町名江戸期は名張城下八町の1つ町人地地籍上は簗瀬村に属す藤堂館の西に位置し,初瀬街道沿いに発達した城下町の中央部にあたる約150mの町筋西は榊町に接する町名は,大手門からまっすぐにのびる本町筋に直交する位置にあるため横町といい,さらに本町辻より下手にあるので下横町と名づけられた(名張市史)商業地の中心で有力な商店がたち並んだ鎮守の式内社宇流富志禰神社の参道にあたり,貞享4年町の入口に檜の大鳥居を建造したが,宝永7年の大火で焼失安永7年町民の勧進で石の大鳥居を再建した当時の記録である一の鳥居奉納帳(松本嘉一郎氏所蔵)は市文化財に指定されている明治5年の人口222(名張市史)同22年名張町に所属明治33年名張銀行,大正11年農工銀行支店開設大正10年に名張町で最初に街路舗装を行い,中心的商店街となる昭和16年中町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下横町(近世~近代) 江戸期~昭和38年の町名江戸期は鳥取城下四十八町の1町町人地はじめは玄忠寺横町と称したが,のち改称鳥取城の西,城下町の北部に位置し,旧袋川に沿う東は鹿野町,南は下魚町,北は下台町と接する玄忠寺横町の町名の由来は,藩主池田光政の時に浄土宗玄忠寺を湯所村から当地に移したことにちなむ玄忠寺は万治3年の焼失後新品治町へ移ったので,当地は古玄忠寺町とも呼ばれた家数は,寛永11年13(因幡志),安永7年64(藩史5)安永7年の表口間数89間余,町役負担数22人余(同前)明治9年の戸数65・人口229(鳥取市史)同22年鳥取市に所属明治以降住宅地として発展昭和38年玄好町・片原1~5丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」