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「大黒町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

大黒町(近世~近代)


江戸期~現在の町名大和大路通三条下ル東側の町寛文期以来市坊となった大和大路の三条口に面し,交通上枢要の地として次第に発展正徳4年洛外町続町家数改帳に大和大路大黒...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7377474]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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大黒町(近世~近代)

江戸期~現在の町名七条通油小路東入の町「坊目誌」は町名の由来について,中世西洞院川が洪水の際,蛭子・大黒の両像が流れつき,当町は大黒像を,その東町は蛭子像をともに祀ったことによるとする寛永14年洛中絵図に「大黒丁」と見える七条通西洞院西入に真宗西本願寺万宣寺,下魚棚通西入1丁目北側に同福専寺があった(宝暦町鑑)万宣寺は,徳治2年僧休円の開基で本尊は阿弥陀仏享保11年9月,万宣寺が寺普請を行う際,先例を破って播磨国の大工を雇ったことから,一貫町通大工頭源兵衛と争論となった結局,万宣寺玄甫が,先例を破ったことを源兵衛方に謝罪した済証文を提出することで落着した(諸式留帳)福専寺は,天正9年丹波の大山半蔵が本願寺顕如に帰依,智海と名を改め建立した寺阿弥陀立像を本尊とする創建の地は不明同寺は慶長年中当地に移り,明治18年豊後国に移転(坊目誌)「表処置録」は,町内居住の蝋燭屋仲ケ間として近江屋てる,米屋仲ケ間として笠屋卯八・越中屋幸助・田中屋喜左衛門,造酒屋仲ケ間として丹波屋嘉七,請酒屋仲ケ間として岩根屋嘉兵衛の名を記し,西本願寺境内である当町に居住しながら浄土宗に属す家持として池田屋長兵衛を記す西本願寺に対し1年に1張分,550文の御挑燈料志を,当町,下魚棚1丁目および土橋町の3町で負担(寺内歳時記)江戸期は西本願寺寺内町の鍛冶組明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】21番組,同5年第29区と改称,同25年第29学区に編成明治12年下京区大黒町,同22年京都市下京区大黒町となり,現在に至る明治2年下魚棚1丁目の一部を編入大正14年の世帯数46・人口239,昭和40年の世帯数60・人口251人口増減率(昭和40~50年)39%減

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名釜座通夷川下ルの町寛永14年洛中絵図に「大黒町」と見えて以後,町鑑類においても,木版図の絵図においても町名に変化はない江戸期,当町には染物屋が多かったとされ(京雀),また,豊後という茶入袋屋(京雀跡追),琴所の神田近江(京羽二重),謡の吉田七右衛門(宝永版京羽二重),薬種問屋の柏屋善兵衛,同源七(京羽二重織留大全)などが居住していたまた,当町西側には黄檗宗薬師院が存するこの薬師院は近世以来「威(医)徳堂」とも称し,本尊は薬師如来で,「京羽二重」の名薬師の中にも数えられているこの薬師如来は「こぬか薬師」として親しまれており,その由来は,当町に鹿子という女性が日暮れごとにこの薬師へ参詣したため,「鹿子薬師」と呼ばれていたのが,誤まって「こぬか薬師」となったという説と(宝暦町鑑),また,当薬師は美濃にあり,斎藤山城守がこの仏を信じ霊夢を感得し,「不来乎【こぬか】々々々」と聞え,その後,斎藤山城守が一寺を建立し薬師を安置し,不来乎薬師と呼んだとする説もある(拾遺都名所図会)薬師院は江戸期,延宝3年,黄檗宗の僧真挙が再興し,その後,元禄8年には僧賢澄が譲り受け,同15年には美濃国大海寺の鉄面が代銀500匁で買って隠居所としたという(坊目誌)江戸期は下中筋組の十六町組に属し,34軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】20番組,同5年第23区と改称,同25年第18学区に編成明治12年上京区大黒町,同22年京都市上京区大黒町,昭和4年中京【なかぎよう】区大黒町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名河原町通三条下ルの町材木町の別称があったというが(坊目誌),「宝暦町鑑」には「此町にも舟入有北側も南側も材木屋也,此町下河原町と云,いづれも東へ行ば木屋町也」と,その由来らしきものがうかがえるまた同書には,三条河原町の「上ル下ル東入西入真中を四辻町」といったと記されており,三条河原町の南両側は大黒町となるが,両町の関係については不明当町の東南部には讃岐丸亀藩京極氏の屋敷(元禄4年京大絵図)があり,文化3年から明治4年までは近江彦根藩井伊氏の屋敷があったまた,当町西側(明治の立誠小学校地)には,江戸期を通じてオランダ使節の定宿海老屋与右衛門の屋敷があった(坊目誌)立誠小学校(現備前島町)の前身は,当町村上和光の寺子屋を購入して運営したもので,明治7年,三条と河原町の頭文字をとり三川校とし,同10年立誠と改称した大正13年1月の大火で類焼後,昭和2年12月現在地に移転江戸期は下中筋組の下河原卅二町組に属し,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】6番組,同5年第6区と改称,同25年第6学区に編成明治12年下京区大黒町,同22年京都市下京区大黒町,昭和4年中京【なかぎよう】区大黒町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大黒町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は宇都宮城下町の1町(宇都宮市史)三面大黒天の祠堂があったのでこの町名が起こった日光街道(江戸街道)沿いに位置し,当町では北隣の蓬莱町とともに7の日に市を開いた(宇都宮史)江戸初期から地子免許元文年間書上帳によれば,名主伝兵衛・太郎右衛門,町並みは南北長さ2町4尺・道幅5間2尺,町家は西側26軒・東側26軒,うち本家33軒・小割家45軒,木戸1か所・番所1か所,ほかに,神明1社,会所坊寺院として神福寺があり,町高は147石余(県史近世1)明和8年町方書上帳には,家数45軒,この坪数438坪余と見える(宇都宮市史)寛政年間の諸職人諸商人留によれば,米屋1・萱手1・大工1が見えるほかに木賃宿も多かった寛政8年宇都宮宿役馬町割覚によれば,池上町組に属し,馬2疋を負担する(県史近世2)「旧高旧領」では町高6斗余と見える明治22年大黒町西裏を編入同年宇都宮町,同29年からは宇都宮市の町名世帯・人口は大正14年142・人口546(男283・女263),昭和23年147・人口772昭和39年西3丁目・一条3丁目・西原2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大黒町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名となる城下の東部,旭川左岸に位置する山陽道沿い南北の町並みで,南は小橋町,北は下片上町東は悪水路を挟んで門田屋敷,西も旭川沿いに形成された武家地で中屋敷と呼ばれていた宇喜多氏時代からの武家地で,寛永年間以降,藩重臣伊木氏・池田伊賀の屋敷があった中屋敷東北にはもと盛岩寺があったが,万治3年国富村へ移されて少林寺と改号した町内に陶器商の店があり,唐津物を荷ほどきするときにモミガラ(スクモ)が出,すくも町と呼ばれたまた東粽町とも呼ばれたが,のち店主が大黒天を勧進して大黒町と改称したと伝えるなお町内中央の横町がすくも町の俗称で呼ばれていた貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(池田家文庫)によれば,高7石余・畝数6反3畝余,その徳米8石余・口米1斗余嘉永7年の家数69,人数168うち男91・女77(旧岡山市史3)昭和7年の戸数43,人口214うち男97・女117同42年中納言町となる...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~昭和56年の町名江戸期は姫路城下の1町町人地明治初年~明治22年は姫路を冠称姫路城の南東,内京口門の東,中濠に沿う町名の由来は,大黒屋という料理茶屋があったことによるという(市制三十年姫路市史)また,総社に大己貴命を祀っており,己貴天神ということによるともいう(播陽事始経歴考)江戸初期から見える町(多木文化振興会蔵姫路城下図)山陽道と但馬街道が交差する地元文5年の家数36軒,地子銀849匁(穂積家文書)明治14年の戸数70・人口271,宅地3,210坪(播磨国地種便覧)同22年姫路市に所属同24年国産木綿問屋で藩御用達であった高井家の高井利平は,万里銀行を創設,資本金10万円また高井製綿所を下寺町に設立大正元年の戸数89(姫路紀要)世帯数・人口は,昭和2年81・335,同35年66・256同56年区画整理により大黒壱丁町・本町・五軒邸1~4丁目となる...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名六角通柳馬場東入の町東側は麩屋町に至り,町の中央を富小路通が通る寛永14年洛中絵図に「大黒丁」と見えて以後,町鑑類,中井家系の絵図においても町名に変化はない江戸中期には長崎糸割符商人駒井太兵衛,両替商菊屋徳兵衛,越後や次郎兵衛などの店があった(京羽二重織留大全)また,南宋画家小田百石も当町の住人であった(平安人物誌)江戸期は南艮組の西雲組に属し,38軒半の軒役を負担,また,祇園会に際しては鯉山の寄町として3斗の地ノ口米を負担した明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】5番組,同5年第5区と改称,同25年第5学区に編成明治12年下京区大黒町,同22年京都市下京区大黒町,昭和4年中京【なかぎよう】区大黒町となり現在に至る...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名室町通五条下ルの町寛永14年洛中絵図にすでに見える町内は南北に通る室町通をはさんで形成されるが,中央付近で東西に走る楊梅通が交差する延宝2年には東側17軒・西側19軒,計36軒があり,町会所は西側中央付近にあった元文元年には同じく36軒であるが,町会所が東側中央付近に移り,また屋号を見ると檜皮屋が比較的多く見られる(田中吉太郎家文書)江戸期は川西九町組の六条荒町組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】16番組,同5年第24区と改称,同25年第24学区に編成明治12年下京区大黒町,同22年京都市下京区大黒町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)29.2%減...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は福山城下の町人屋敷地福山城の東,北は胡町,東は武家屋敷地の東町,南は今町,西は府中町はじめ武家屋敷地の通町の一部であったが,寛永末年町人屋敷地となって成立した町名は商家の神大黒に由来する「備陽六郡志」によれば,町の規模は150間余・2,160坪余,戸数104(本家29・表借家35・裏借家40)「福山志料」では長さ150間余,戸数67・人数142明治21年の戸数57・人口223同22年福山町,大正5年福山市の町名となる同6年の戸数47・人口240昭和20年8月の空襲により全焼同40年今町・府中町・東町の各一部を編入...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名大黒町通松原下ル3丁目の町町名は北御門町の寿延寺大黒天堂にちなんでつけられた大黒町通の名にちなむ「京雀」に「五条橋より東へ四筋目」に「大こく町」と見えるのが早く,寛文12年洛中洛外大図も「大黒町」の名を挙げる「宝暦町鑑」は「此町に橋有,清水寺音羽滝の下流也」と記す江戸期は巽組新ン町大仏組明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】28番組,同5年第21区と改称,同25年第21学区に編成明治12年下京区大黒町,同22年京都市下京区大黒町,昭和4年東山区大黒町となり現在に至る...

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大黒町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は鹿児島城下下町のうち明治22年からは鹿児島市の町名南林寺の門前町で,幕末には市がたった(鹿児島のおいたち)北は金生町,東は堀江町,南は新町に接する(県地誌)明治10年代の戸籍簿による戸数425,うち士族16・平民409,職業は無職6・不明15・農業3・雑業329・医師4・工29・大工1・金銀細工1・傘屋1・舟乗1・商32・反物1(鹿児島市史)明治20年頃の戸数162明治41年戸数184・人口816世帯数・人口は,大正11年195世帯・1,122人,昭和10年179世帯・1,010人...

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