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- 高野荘(中世)とは
「高野荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 高野荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名新川【にいかわ】郡のうち正中2年11月25日の三千院門跡所領等勘注状に「越中国黒田保(号毘沙門供田,在高野庄内)」とあるのが初見で,三千院跡の中堂領の1つとして勘注されているまた,同勘注状には,異筆で寺院・本尊・聖教・山洛房舎・荘園所領等を尊雲法親王(護良親王)に付属する旨の記載がある(三千院文書/県史中)三条公忠の日記「後愚昧記」の貞治6年正月29日条によると,同荘についての奉書案の存在したことが知られ,三条家領であった高野荘の領家職3万疋は地頭請所となっていたが滞っていたため,応安5年6月29日に新しく領家職が契約されたそれによると「宇津宮まつ万疋(京定八干三百廿疋)あしを領状のうえ」3分の1を安禅寺方丈文林大姉に永代譲与し,3分の2を9・10月中に領家に納入すること,また当荘には蓮華王院寺用十薬院門跡役があり,それも3分の1を沙汰することになっているので勝手に契約に背かないことなどが約束された(徳富文書/県史中)さらに同年の正月11日に公忠はその日記の中で同荘について,10月に勅使が出されたことを喜んでいるまた同日高野荘に関する幕府奉書が出されており,13日条には「高野庄事,為催促罷向管領許之処,不違約」とある(後愚昧記/県史中)この頃,三条家では高野荘回復のため,熱心に策動していたことがうかがわれるしかし,高野荘の運営ははかばかしくなかった永徳元年(弘和元年)8月12日条には「高野荘管領不遵行」とあり(後愚昧記/立山町史)翌2年5月4日には義満に使を送り「於尾州越州事者,忩重可仰付之」との返答を受けている(実冬公記/歴代残闕日記15)下って「結番日記」文明19年4月2日条によれば,三条公敦は高野荘領家職が,先年地頭方に混じって幕府御料所となり,細川・水橋らが地頭方に混ぜて現在も知行しているとして,その還付を強く要求しているしかし,同年3月椎名某が高野七郷に強引に入部し騒乱になったように,下地の知行の回復は実際には不可能であり,次第に在地の武将たちの手に移っていったものと思われ,これ以後荘名としての所見はなくなった(結番日記/続史料大成14)高野荘はおおむね近世の高野郷に相当するものと思われ,現在の立山町高野のあたりと推定されるただし初見の黒田保の名は近世,現在も見られない |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高野荘(中世) 南北朝期に見える荘名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 高野荘(中世) 室町期に見える荘名嘉吉元年と推定される7月10日の沙弥禅元書状(角田石川文書/県史7)に「次東海道面々無是非候,高野庄辺へ致出陳,可被致忠筋之由,及度々,被申候て,于今無其儀候」と見え,佐々河殿足利満直が殺された頃の仙道(中通り)地方のようすを石川中務丞に伝えている明応6年7月24日の旦那売券(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書4)に「奥州聞田(菊田)・高野荘彼両所,那智山玉井雖知行候,依有用要,地下一族・同渡辺共ニ丁巳年(明応6年)より寅年迄十年忌(季)ニ廊之中納言殿へ売渡申所実正也」とあり,20貫で売渡している高野荘は,高野郡の別称と推定される→高野郡【たかのぐん】... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高野荘(中世) 戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」