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- 竹屋町(近世~近代)とは
「竹屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 竹屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名押小路通柳馬場西入の町西は高倉通までで,町の中央を堺町通が通る寛永14年洛中絵図に「竹や丁」と見えて以後,町名に変化はない江戸期,当町には国分...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7377673]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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竹屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名若宮通七条上ルの町南北に通る若宮通に面する両側町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図には「四丁目」とあるが,これらは各図によれば,それぞれ若宮図子4丁目・若宮辻4丁目を意味するまた天明6年洛中洛外大図には「若宮通四丁目」,延享3年の「寺内歳時記」(村上文治家文書)には「若宮四丁目」とも記す現町名はすでに寛文5年刊「京雀」に見られる町名は,竹材の販売を業とするものが当地に居住していたことに由来するという(坊目誌)当町は地子を負担する地子屋敷町の1つ(寺内歳時記)町内西側にある崇泉寺は,浄土真宗本願寺派に属し,「表処置録」(村上文治家文書)では堂達としてあげるまた同書によれば,米屋仲ケ間の嵯峨屋伝兵衛が居住江戸期は西本願寺寺内町の若宮組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区竹屋町,同22年京都市下京区竹屋町となり現在に至る世帯数・人口は,同44年42世帯・159人,大正14年50世帯・203人,昭和40年67世帯・203人人口増減率は(昭和40~50年)36%減 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
竹屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名堀川通上立売上ルの町町名は,往古,竹屋家(公家)の邸宅があったことによるという(京雀・坊目誌)寛永14年洛中絵図には「北竹屋町・南竹屋町」と記される江戸期には,上立売通から寺之内通が二分して,南北の竹屋町に分かれていたまた,「竹やの辻子」(京雀)とも称した明治2年に南・北両町を合併,竹屋町となる江戸期は北竹屋町が上西陣組の寺之内四町組,南竹屋町が下西陣組の大北路組に所属明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】5番組,同5年第4区,同25年第4学区に編成明治12年上京区竹屋町,同22年京都市上京区竹屋町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
竹屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名高倉通綾小路下ルの町寛永14年洛中絵図にすでに見える江戸期,当町西側に清寿庵検行堂所とよばれる座頭職の家があったが(宝永2年洛中洛外絵図・宝暦町鑑),のち仏光寺西町に移る江戸期は巽組の四五間組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】10番組,同5年第12区と改称,同25年第12学区に編成明治12年下京区竹屋町,同22年京都市下京区竹屋町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)13.7%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」