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- 突抜町(近世~近代)とは
「突抜町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 突抜町(近世~近代)
江戸期~現在の町名衣棚通姉小路下ルの町寛永14年洛中絵図では「衣ノ突抜町」,寛文12年洛中洛外大図では「衣ノ突抜」と見え,宝永2年洛中洛外絵図に「衣棚突抜丁」と...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7377978]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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突抜町(近世~近代) 江戸期~現在の町名釜座通姉小路下ルの縦町江戸期には「釜座突抜町」「釜座町」と呼ばれていた「坊目誌」では享保以来現町名になったとするが,享保以降も「宝暦町鑑」,天明6年洛中洛外大図,天保2年京町絵図細見大成で「釜座突抜町」とある慶応4年8月の府布令書に下京2番組「突抜町」とあり,その後明治9年京都区分一覧之図などに現町名が見られることから,その呼称が定まったことが知られる現町名は維新後に南に接する横町である「釜座町」との区別のため選ばれたものと考えられる江戸期は上艮組の西洞院十六町組に属し,29軒の軒役を負担,祇園会には浄妙山の寄町として3斗の地ノ口米を納めた明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】24番組,同5年第27区と改称,同25年第22学区に編成明治12年上京区突抜町,同22年京都市上京区突抜町,昭和4年中京【なかぎよう】区突抜町となり現在に至るこの間,明治22年南神明町の一部を編入大正7年の現住戸数43,人口男115・女103,家数34 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
突抜町(近世~近代) 江戸期~現在の町名下立売通御前西入の町葛野【かどの】郡西ノ京村に形成された洛外町続町の1つ寛永14年洛中絵図には,町名は記されないが,町家が建ち並んでいる様相が描かれている寛文12年洛中洛外大図には「東ノ突抜」と記されるこれは「西ノ突抜」(現行衛町【ゆくえちよう】)に対する呼称で,下立売通が御前通までで行き止まりだったのを,すくなくとも寛永14年以前に西へ延長し,「突抜け」たという意味ではないか以後,「東突抜町」の名が頻出,現町名は,寛保元年京大絵図に記されるのが絵図では早い例である町組は洛外西ノ京の下組正徳4年の洛外町続家数改帳では家数21(荻野家文書)明治元年上京【かみぎよう】に編入,同2年の町組改正から上京8番組,同5年第13区と改称,同25年第10学区に編成明治12年上京区突抜町,同22年京都市上京区突抜町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
突抜町(近世~近代) 江戸期~現在の町名今出川通七本松東入の町寛永14年洛中絵図には「釈迦突抜町」と記され,また「地ごくの辻子」とも称した(京雀)これは「地奥」が転化して「地ごく」になったともいう(坊目誌)地奥とは,輸入品の奥縞(織物の1種)を「唐奥」というのに対し,西陣で産するものの呼称町名は五辻通と須磨町通(現今出川通)の間の短い路に沿う町の意と思われる江戸期は上西陣組の釈迦十町組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】3番組,同5年第6区と改称,同25年第5学区に編成明治12年上京区突抜町,同22年京都市上京区突抜町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」