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- 納屋町(近世~近代)とは
「納屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 納屋町(近世~近代)
織豊期~現在の町名寺之内通室町西入の町町名の由来は,足利氏の米・塩貯蔵のための倉庫が当地に置かれていたことによるという(府地誌)すでに「元亀米賄帳」に「なや町」...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7378607]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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納屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名土手町通七条上ルの町町名の由来は,はじめ七条通材木町に属し,木材および薪炭の貯蔵所があったことによるという(坊目誌)寛永18年の東本願寺の寺領拡張後に形成された町承応2年新改洛陽並洛外之図に「なや丁」と見える寛文12年洛中洛外大図に「下なやノ丁」とあるが,天明6年洛中洛外大図は「納や丁」と記す「諸式留帳」には,享保5年7月,町内で喧嘩があり,男1人が殺された事件や,同9年5月町内居住の盲人久休なる坊主が吟味をうけた事件が記されている文化4年の沽券改めによれば,当町は,土手町通をはさんで東側に10軒,西側に8軒の人家が立ち並んでいた町並みはその後,弘化4年および明治9年の調査でもまったく変化していないしかし,住民については,文化4年から弘化4年の間に連続していると思われる家は3軒にすぎず,ほかはいずれも住民の異動があったことを示し,その変容の激しさがしのばれる(町儀式目扣)江戸期は東本願寺寺内町新屋敷明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】20番組,同5年第30区と改称,同25年第30学区に編成明治12年下京区納屋町,同22年京都市下京区納屋町となり,現在に至る明治44年の世帯数84・人口265,大正14年の世帯数66・人口232,昭和40年の世帯数51・人口165人口増減率(昭和40~50年)22.4%減 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」