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- 西郡(中世)とは
「西郡(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 西郡(中世) 室町期~戦国期に見える郡名相模国のうち戦国期,相模国は主に東・中・西および三浦の4郡に分けて称されており(役帳),西郡は,中世の足柄上・足柄下郡を含み,現在の小田原市・大井町・松田町・山北町・開成町・南足柄市・箱根町・湯河原町・真鶴【まなづる】町と中井町の西半分および秦野【はだの】市の一部(四十八瀬川の西の部分)にわたる地域にあたる応永28年8月吉日の大森憲頼寄進状(内海文書/県史資3上‐5634)に「相模国西郡飯田郷之内田壱町之事」と見え,鮎沢御厨(現在の静岡県御殿場市)にあった二岡【にのおか】七所大権現に当郡内飯田郷(現在の小田原市飯田岡付近)を寄進しているまた大森憲頼は応永3年4月22日「相模国西郡小松郷之内田地三町」を梵篋寺覚智院に寄進しており(同前5707),当郡名は応永24年大森頼顕が小田原城主となって以降に見えている明応4年北条早雲が小田原城を攻略し,当郡はその支配下に入った以降小田原城の存在する領域として城主である小田原北条氏の当主の支配する,いわば直轄領域となった(県史通1)小田原北条氏支配下での当郡名の初見は,大永2年9月11日の北条家朱印状(三嶋神社文書/県史資3下‐6564)で,「西郡大井之宮社領」とあり,大井宮(現大井町金手の三島神社)の法度を定めている永禄8年3月28日の北条家朱印状では,当郡の皮作に対して「於西郡・中郡,皮はきにあらすして,はき取由申上候,法をそむく上,見あひに押て取へし」と命じており(浦島文書/県史資3下‐7437),天正7年2月10日の北条家朱印状写には「於西郡,背御法度,以網鳥つくもの相押申上候,神妙ニ候」と,当郡内で網で鳥を取ることが禁止されていた(相文/同前8481)当郡の郡代については,永禄9年6月11日の北条家朱印条(福住文書/同前7490),年欠8月7日の石巻家貞書状写(真鶴町所蔵文書/同前8042)などから石巻氏であったことがわかる(歴史学研究523)なお小田原北条氏支配下に見える当郡内の郷名には,飯泉郷・加山之郷・一色郷・金子之郷・大井郷などがある(県史資3下‐6732・6770・6886・8782・9581)また「役帳」で当郡内とする地名はほぼ酒匂【さかわ】川の流域に分布している |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西郡(中世) 鎌倉期~戦国期の広域地名「和名抄」にいう山梨西郡とは異なる甲斐の国中【くになか】を縦に三分したうちの釜無川以西の地域をいい,はじめ逸見・武川【むかわ】地方をも含んでいたが,戦国期からこれは別の区分となった貞応3年の明王寺(増穂町)鰐口に「甲斐国西郡」と刻銘があるのが初見戦国末期の史料には西郡内の地名として鮎沢・南条・中条が見える「国志」には甲州から信州への穂坂路・大門嶺棒道・諏訪路の道筋に属する村とあるが,江戸期では西郡筋に当たる地域というべきであろう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西郡(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西郡(中世) 戦国期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」