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- 東魚屋町(近世~近代)とは
「東魚屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 東魚屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名六条通室町東入の町で,六条通をはさむ東西の小街寛永年中より,魚棚通の市場から当地へ出張して魚鳥菜果の売買が行われたが,その後廃止されて町名だけ...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7379259]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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東魚屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名椹木町通小川東入西入の町東山崎町とも称した(宝暦町鑑・天明6年洛中洛外大図)町名の由来は古くから椹木町通東堀川から西洞院に至る間に魚市場が開けたことによる元和年間には初めて京都で魚問屋の称号が許され,椹木町通西洞院以西小川以東の魚市場上ノ店市場と称し,錦ノ店,魚棚通の六条ノ店とともに三店魚問屋の1つとされた享保年間に三店魚問屋の株仲間が設定され,上ノ店では25軒中12軒が占めるそこではそれぞれ一定の仲買人のみ当市場に出入を許され,仲買人以外とは一切取引をしなかった(万亀楼文書)しかし,幕末頃には大津魚仲買人が京都の町方へ魚の直売をするようになり,またそれまで三店魚問屋より一段格が低く魚販売を許されなかった塩肴問屋の西納屋市場の侵食により,株仲間としての特権的地位は次第に失われた特に明治元年「不寄何事新規之儀申出,仲ケ間一統致仏乱儀決而仕間敷候」として株仲間体制の崩壊が決定的となり,錦ノ店にくらべ上ノ店・六条ノ店の魚問屋としての地位は失墜した(京都市社会課編市場の沿革・京都社会史研究)西洞院通より堀川までの椹木町通を特に上魚棚通ともいった「京羽津根」には上ノ店魚問屋として椹木町小川東の酢屋又兵衛・同石橋屋久三郎,椹木町小川西の大黒屋又兵衛の3名を挙げている江戸期は下川東組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】18番組,同5年第20区と改称,同25年第16学区に編成明治12年上京区東魚屋町,同22年京都市上京区東魚屋町となり現在に至る大正14年の世帯数38・人口239 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東魚屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名錦小路通柳馬場東入の町東は麩屋町通にまで及び,町の中央を南北に富小路通が通る寛永14年洛中絵図ではすでに「東魚屋町」の町名が見えるが,「京雀」「京雀跡追」といった江戸初期の町鑑類および承応2年新改洛陽並洛外之図などの木版図の絵図の一部のものは「中の町」と記し,「都すゞめ案内者」や「宝暦町鑑」は「東魚棚町」としている隣接する西魚屋町・中魚屋町に対して,早くから東魚屋町の町名は冠せられていたと考えられるが,「中の町」「東魚棚町」いう町名も用いられていたのであろう町名の由来は江戸初期より錦小路の御幸町通と高倉通の間に魚棚が開かれ,魚屋が集住していたことにより,当町にも生魚問屋いせや伝兵衛・同大坂屋久兵衛・同いづみや五郎兵衛・同わたや半兵衛らが店を構えていた(京羽二重織留)江戸期は三町組の四条七町半武蔵組十五町に属し,48軒の軒役を負担また,祇園会に際しては菊水鉾の寄町として銀3匁を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】5番組,同5年第5区と改称,同25年第5学区に編成明治12年下京区東魚屋町,同22年京都市下京区東魚屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区東魚屋町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東魚屋町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は柳川城下の1町東は細工町,西は小道具小路,南は北長柄小路,北は市街を東西に走る貫道を隔てて瀬高町に隣接する古くは魚介類は沖端で川船に積み替え,城堀をさかのぼり小道具小路に陸揚げしたという寺院は,安政5年に僧洞哲開基の真宗大谷派東金寺が「民家を以て寺院となし未だ御堂等なし」と記されている(旧柳河藩誌)寛政年間の絵図では東魚町と見え,出橋御門・上町・中町・本小路・札辻本町を結ぶ南北に走る貫道の東側に位置し,東西に延びる瀬高町の南に記載されている明治11年の耕宅地1町,戸数79・人数386(県史資料2)同22年柳河町,昭和26年柳川町,同27年からは柳川市に所属同55年の世帯数53・人口183... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」