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- 弁財天町(近世~近代)とは
「弁財天町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 弁財天町(近世~近代)
江戸期~現在の町名大和大路通三条下ル3丁目西側の町洛外町続町の1つ町名は鴨川に架かる大和橋畔にあった弁財天社に由来するという(雍州府誌)寛文年間,鴨川の堤防下を...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7379737]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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弁財天町(近世~近代) 江戸期~現在の町名諏訪町通松原下ルの町天正18年豊臣秀吉の洛中都市改造によって新しくひらかれた町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図にすでに見える町名の由来は,弁財天の祠が町内に所在したことにより(坊目誌),また東山の下河原弁天町(現東山区上弁天町・下弁天町)は,元禄12年9月に当町住人の清左衛門が開拓したことによって同じ町名がつけられた(府地誌)町内に所在する真宗大谷派永念寺は,慶長17年5月僧一空の開基と伝える(坊目誌)江戸期は川西十六町組の五条九町組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】14番組,同5年第18区と改称,同25年第18学区に編成明治12年下京区弁財天町,同22年京都市下京区弁財天町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)36.6%減 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
弁財天町(近世~近代) 織豊期~現在の町名今出川通新町西入の町町名は往時この地が,東北院内の弁天堂の旧址にあたることによる(府地誌)すでに「元亀米賄帳」には小川組拾町の1つとして「弁才天町」と見える町内を東西に通る道が今出川の本通りで,当町北側は元新在家町・元本満寺町と接していたが大正元年今出川通は現在のように改修された江戸期は小川組の上小川十一町組明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】12番組,同5年第9区と改称,同25年第8学区に編成明治12年上京区弁財天町,同22年京都市上京区弁財天町となり現在に至る大正14年の世帯数35・人口186... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」