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桝屋町(近世~近代)


江戸期~現在の町名御幸町通高辻下ルの町天正18年豊臣秀吉による都市改造に際して新たにひらかれた町で,江戸初期には「五条升屋町」(寛永14年洛中絵図・寛文12年洛...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7379916]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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桝屋町(近世~近代)

江戸期~現在の町名三条通高倉東入の町東は高倉通,西は柳馬場に至り,町の中央を堺町通が通る寛永14年洛中絵図に「桝や丁」と見え,以後町名の変化はない「宝暦町鑑」には「北側・南側二町に分る」と記されており,元来は三条通を隔て北側と南側とに分かれていたのが,明治初期に合併されたものと思われる町名の由来については当町に多くの商家が並び,その中でも「桝屋」という屋号の店が繁昌を極めていたからともいう(日彰百年誌)商家桝屋某については伝承の域を出ないが,「京雀跡追」によれば,当町付近に綿商人の存在が確認でき,「京羽二重織留」には諸国買物問屋の松坂屋喜右衛門・同徳右衛門,「京羽二重織留大全」には両替屋いせ屋源兵衛の名が見えることから,当町が繁華な商人街であったことは推測できる江戸期は三町組の三条五町組に属し,42軒の軒役を負担また,祇園祭に際しては黒主山の寄町として5斗の地ノ口米を負担した明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】4番組,同5年第4区と改称,同25年第4学区に編成明治12年下京区桝屋町,同22年京都市下京区桝屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区桝屋町となり現在に至る

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名八坂上通(霊山道)下河原町東入の町高台寺より清水二年坂に通じる道筋にあたる洛外町続町の1つ元来当地は祇園社領の畑地であったが宝暦年間桝屋喜兵衛が官許を得て開町町名は開拓者の名による当地は東山の支峰霊山を背景とする景勝地で江戸初期の歌人木下長嘯子の山荘挙白堂は当町の南東にあったという北東には正法寺の塔頭叔阿弥があり,円山安養寺の左阿弥や双林寺の文阿弥などとともに文人墨客の集会・遊宴の地となった(都林泉名勝図会)叔阿弥は天保の頃西本願寺の所有となり翠紅館と称した文久3年桂小五郎・坂本竜馬らは同所で急進派の公卿と会同し,尊王攘夷の方策を協議した当町は法観寺門前町の1つで当町西部には娼家がおかれ,辰巳新地の一環をなしていた明治元年下京【しもぎよう】に編入同2年の町組改正より下京27番組,同5年第22区と改称,同25年第22学区に編成明治12年下京区桝屋町,同22年京都市下京区桝屋町,昭和4年東山区桝屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~昭和40年の町名・大字名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領浜通りの西部にあって東は湊【みなと】町,南は元会所町・鍵屋【かぎや】町・船頭町,西は東今颪【ひがしいまおろし】町,北は蔵橋町・西山町・川口町港町大津の中心部で両替商・蔵元・荷問屋・油問屋などがあった自治組織は桝屋【ますや】町組文政元年の幕府御用金は両替商兼蔵元の鍵屋五兵衛が4,000両負担している慶応元年大津宿役を負担する役家は28軒あった(大津市志)江戸期,この町は飲料水に乏しく,神出【かみで】村の大練寺の清泉を地下に敷設した竹筒を通して各戸に供給し,その費用は各戸で負担していた明治5年滋賀県に所属同22年滋賀郡大津町成立に伴い大津町大字桝屋町,同31年大津市桝屋町となる昭和11年より44年まで大津郵便局があった同40年長等【ながら】3丁目と浜大津3丁目の各一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名河原町通丸太町上ルの町寛文12年洛中洛外大図によれば,当町の西側は御土居が築かれていたが,その後次第にくずされ,天明6年洛中洛外大図では御土居は消滅し町家化している明治2年の状況は河原町通をはさんで東側14筆・西側15筆の家屋敷が存在し,そこに家持14戸・借屋31戸が居住また当町は下御霊神社の菊鉾守護の町の1つ(同前)江戸期は下中筋組枝町の上河原町十二町組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】30番組,同5年第22区と改称,同25年第17学区に編成明治12年上京区桝屋町,同22年京都市上京区桝屋町となり現在に至る大正13年10月河原町通の丸太町以北に市電が開通その際行われた道路拡幅工事により当町の一部も収用された世帯数および人口は,大正7年62世帯・372人,同14年には25世帯・136人,昭和40年24世帯・92人...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名麩屋町通錦小路下ルの町寛永14年洛中絵図に「舛屋町」と見えて以後,桝・升などの字が当てられるが,町名自体に大きな変化はないただし,寛永18年以前平安城町並図などの木版図の絵図では「むさし町」とするものもあるが,洛中絵図類・町鑑類も江戸初期以降,現町名で見えるので,江戸初期から現町名に固定していたと考えてよい「京雀跡追」には当町にそうめんやが居住していたことが記されている江戸期は三町組の四条七町半武蔵組十五町に属し,28軒の軒役を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】5番組,同5年第5区と改称,同25年第5学区に編成明治12年下京区桝屋町,同22年京都市下京区桝屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区桝屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名富小路通竹屋町上ルの町寛永14年洛中絵図に「舛屋町」と見えて以後,町名に変化はない貞享年間頃には町の東側に上方御代官衆の小野半之助,町の西側には同じく上方御代官衆の小野長左衛門の邸宅があり(京羽二重),また,「宝暦町鑑」には千種稲荷と称される祠社があったことが記されている江戸期は下一条組の富小路七町組に属し,34軒の軒役を負担明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】22番組,同5年第25区と改称,同25年第20学区に編成明治12年上京区桝屋町,同22年京都市上京区桝屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区桝屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名西堀川通出水上ルの町寛永14年洛中絵図には「舛屋町」と記されるまた奈良産の品物を商ったことから「なら物や丁」とも称した(寛永18年以前刊平安城町並図ほか)江戸期は聚楽組の堀川組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】17番組,同5年第19区と改称,同25年第15学区に編成明治12年上京区桝屋町,同22年京都市上京区桝屋町となり現在に至る昭和20年の強制疎開により東側の町並みは撤去された...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

桝屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名笹屋町通大宮西入の町町名は,慶長年中に升屋宗安という茶伝士が住んでいたことにちなむと伝える(府地誌)寛永14年洛中絵図に「舛屋町」と記される江戸期は下西陣組の石薬師組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】11番組,同5年第8区と改称,同25年第7学区に編成明治12年上京区桝屋町,同25年京都市上京区桝屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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