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- 水呑村(近世)とは
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![]() | 水呑村(近世) 江戸期~明治初年の村名庄内地方,庄内平野東端,最上川の支流新井田川下流左岸に位置するはじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうち庄内藩領平田郷に属すもとは大町村の枝郷であった(飽海郡誌)村高は,正保5年の土目録(同前)には水呑分と見え84石余,「旧高旧領」80石余幕末期の「弐郡詳記」によれば,免3ツ5分当村は水害などの被害を受けやすく,年貢負担が重いため百姓が離散して土地が荒廃していたそのため郡代家老柴谷武右衛門・加藤甚十郎らが近隣から水呑百姓42人を集めて開拓させたという(飽海郡誌)明治2年凶作のため19人に対し御救米が出された(県史12)明治初年大町村に合併 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」