ケータイ辞書JLogosロゴ 宮津荘(中世)


京都府>宮津市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。与謝郡のうち。長講堂領。領家等持院。建久2年の長講堂領注文に「〈伊禰庄役〉宮津庄」と見え,元三䉼・節器物・御八講䉼・彼岸御布施・御更衣畳・次雑仕装束・門兵士・月宛仕丁など種々の課役を負担しているが,その多くは「不勤之」とされている(島田文書/鎌遺556)。その後,応永14年3月の宣陽門院御領目録にも「丹後国宮津庄 長講衆 年貢十石」と見える(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)。この間,延文3年12月20日には足利義詮が久下貞重に当荘地頭職を宛行っており(久下文書/大日料6‐22),明徳4年7月30日には足利義満が「丹後国宮津・粟(栗)田両庄領家職」を山城等持院に寄進している(等持院常住記録/大日料7‐1)。領家等持院領については「蔭凉軒日録」に所見する。同日録永享12年6月2日条には「等持院領宮津内一色方被官人闕所之事,以都管状伺之,於等持院御寄進之由被仰出」とあり,これは同年丹後守護一色義貫が大和の陣中で誅されたことに関連するものであろう。また,寛正4年8月5日条には「等持院領宮津庄三沙汰人緩怠」との記事が見え,文明18年11月から翌19年1月にかけては,丹後守護一色義直が「等持院領宮津保」を半済と号して押領,等持院では「寺財欠乏」という状態に陥ったことも知られる。こうした所務の減少によって,延徳2年閏8月5日には「宮津庄長講堂公用」は,100貫文と定められた(伺事記録)。下って,文亀3年4月,幕府は当荘本役長講堂分を御料所となし,西郡兵部大輔貞弘に付した。そのため,長講堂衆はそれを訴え,永正2年段階では若狭国御料所吉田荘本役結布代50疋が代替として与えられたらしい(宣胤卿記)。「丹後国田数帳」には「一 宮津庄 百五十五町三百十二歩内」と見え,うち107町余は等持院領,13町余は栗田村御料所,15町余は壇林寺領,7町余は壇林寺領公文分,7町余は公文分延永左京亮,2町余は漆原名延永左京亮とされている。また,「丹後国御檀家帳」には「宮津の内によくわんにて」「宮津いち場」「宮津えのしま」「宮津太田」「宮津の御城」が見える。田数帳より推定すれば,中世宮津荘の荘域は,宮津市域の通称宮津谷,栗田から,舞鶴市域の漆原までまたがる地が考えられ,「丹後国御檀家帳」段階では宮津谷の地域を宮津と称していたらしい。なお,御檀家帳に見える宮津の城とは宮津市喜多に所在した小倉城のことで,小倉氏の居城。のちの宮津城は,北方宮津湾に臨む宮津谷河口部に築城された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7380296
最終更新日:2009-03-01




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