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「八百屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

八百屋町(近世~近代)


江戸期~現在の町名室町通六条下ルの町室町通に東面し,南は花屋町通寛永14年洛中絵図には「八百屋丁」,寛文12年洛中洛外大図は「東す八中ノ町」と記すまた「宝暦町鑑...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7380484]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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八百屋町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は長崎外町の1町陸手【おかて】に属した長崎港に注ぐ岩原川下流左岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北部に立地し,町並みは東西に延び,東は炉粕町,西は内中町に隣接していた町名は,地内が片淵カブや立山大根などの集散地で,八百屋が多く居住していたことに由来する地内には制札場,町年寄年番書物入蔵,普請方用屋敷,乙名会所などがあった江戸前期までに新御座町の一部を編入した正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数56(柏原家文書),寛文3年の町の長さ247間・家持47(寛宝日記),同12年の町の長さ185間,実箇所数59,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数2,225坪余,箇所数61,竈数98,戸数114・人数276(男154・女122)乙名職は,明暦年間は池田又兵衛であったが,延宝年間に中尾仁左衛門が任じられてからは,新五右衛門(享保~寛延年間),恒右衛門(寛政年間),縫右衛門(文化年間)と中尾家が相続,さらに天保年間は京品之助,安政5年からは同酉之助が勤めたまた,当町のくんち奉納踊は竹ン芸で,現在伊良林くんちの奉納踊に伝承されている(市無形民俗文化財)明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には医院などがあった昭和3年の戸数72,同10年の戸数74・人口343,同50年の世帯数41昭和38年一部が上町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名昭和16年からは1~3丁目がある江戸期は徳島城下の町人町の1つで,明治22年からは徳島市の町名となる「阿波志」によれば,もと中町に属し,旧名袋町とある紙屋町(現一番町)の一筋南,南は中通町西に中町・紀伊国町と続き,西横町に出たなお貞享2年の徳島市中町数並家数では,この町筋は紀伊国町筋とある(民政資料)当町について,「異本阿波志」に「八百屋は御城近く可有旨にて此丁を八百もの丁に被仰付外ニ而売買御禁被仰付候……最初御免の地故八百屋丁の者共之内相分れ彼地(助任町)へ移り申よし其砌は総て郷中より出申青もの一切毎朝此丁に来りせり申由」と見える「阿波志」には当町居住の豪商として熊沢与三兵衛と菜肆四郎左衛門の名が出ている与三兵衛については「尾張人,従瑞雲公至,鬻菜果,世居八百屋街」と見え,また四郎左衛門については「称八百屋,国初以来管進菜蔬,天明四年召見,後以為例,世居八百屋街」と見える明治初年中町・紀伊国町を編入明治22年の戸数203・人口867,財政規模は収入167円22銭・支出190円49銭,世帯数・人口は,昭和5年139・591(自治五十年小史)同50年紙屋町1~3丁目の一部を編入当町の一部が両国本町1~2丁目となる毎年8月12~15日の4日間は徳島市内が阿波踊で熱狂するが,当町にはマンモス桟敷が設けられ,メイン会場としてにぎわっている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は米屋町,西は新町と接する唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち町人地江戸期は大工・左官が多く住む職人町文化年間頃の町筋は南北1町20間,古来本軒44,当時人数139(男74・女65),引合五人組46人,うち町年寄2・組頭2・古来馬持2・当時馬持2(松浦拾風土記)苗字御免の鍛冶師川副光寿,松葉本行で有名な刀鍛冶高田河内は当町の住人唐津大明神はもと当町中央四ツ角に鎮座していたと伝える寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている当時は町火消し石崎支配組に所属(諸事掟/唐津市史)唐津藩領最後の町年寄は筒井清左衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)明治元年の軒数54・人数128(唐津市史)同5年旧藩主土方守雄が唐津において初めての郵便取扱所を自宅で開設した同20年京町に移転「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「八百町」と見え,戸数45・人口148明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口273(唐津市史)大正4年の戸数55・人口240世帯数・人口は,昭和5年42・187,同35年66・245,同41年63・215...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~昭和47年の町名江戸期は高知城下下町の1町で,明治初年南街,同22年からは高知市の町名となる下町の中央を東西にのびる堀の南側に位置し,堀沿いの堺町から掛川町・弘岡町までの南北の横町当地にはもと魚棚と呼ばれる魚類小売所が開設されていたが,万治2年魚棚は弘岡町へ移転,その跡地には野菜・乾物など八百屋物を商う店が立ち並んでいった町名は八百屋の集住による「高知風土記」によれば,東西18間・南北93間,家数30軒なお同風土記には,浦戸町と同町北部堀沿いの通称片町とともに当町の3か町はすべて浦戸町というとあり,東接する浦戸町の枝町としてその支配を受けた当町の吉田屋亀助は貸本商を営み,土佐における貸本業の創始となったが,民政に熱意を示した町奉行馬詰親音の助力に負うところが大きかったまた製糖・製紙の特権商人であった田村屋は当町に居住,代々川崎源右衛門を名乗った世帯数・人口は,昭和6年21・133,同45年19・75(男36・女39)同47年住居表示実施により,南はりまや町1丁目・堺町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名堺町通錦小路下ルの町寛永14年洛中絵図に「八百屋丁」とあり,以後の絵図もほぼ変化はないが,寛永18年以前平安城町並図には「亀屋突抜町」という異称で記されているこの異称は,もともと,このあたりに亀屋某という町人が居住していたことによるらしいが,宝暦12年段階では「今はなし」と記されているから(宝暦町鑑),江戸中期には現町名に固定したのであろう現町名の由来については,錦市場が盛んな頃,当町に八百屋が多かったことによるともいわれる(日彰百年史)江戸期は三町組の四条七町半武蔵組十五町に属し,14軒の軒役を負担明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】4番組,同5年第4区と改称,同25年第4学区に編成明治12年下京区八百屋町,同22年京都市下京区八百屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区八百屋町となり現在に至るこの間,明治30年頃には当町西側の四条通寄りに京都画壇の中心をなした上村松園が居住していたという...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ本町筋の西,南北道路長者町筋にある本重町筋から入江町筋までの間の3丁北は下長者町,南は光明寺町に隣接する清須越の町ではなく,名古屋開府以後の町家当地に野菜を商う人々が多く住んでいたことから八百屋町と呼ばれた(尾張名陽図会)なお,広小路より南側は,入江町筋までは西側が武家屋敷であった(尾張志)享保年間の家数93,町役銀1貫10匁(名府予録)町内には修験宝積院・勧竜院の2寺院があった氏神は広小路神明宮(名古屋府城志)東照祭には警固の衆,白張12人を出した(名古屋祭)明治4年広小路以北が下長者町の一部となる同時に隆正寺門前を合併明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市中区,昭和19年同市栄区,同20年からは再び同市中区に所属昭和11年広小路通,同38年白川町,同41年栄1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名六角通麩屋町東入の町寛永14年洛中絵図に「八百や丁」と見えて以後,町鑑類・洛中絵図類とも町名に変化はない当町には仏事関係の商人が多かったらしく,「いはいや」「そうれい(葬礼)のこしのり物や」などがいたと記されているまた,頭巾・木綿はかま地・羽織地・鼻かみ袋などを商う店もあったが,すべてやすもの商人向きのものであったという(京雀跡追)その他,禁裏の御呉服所の高島屋善次郎の居宅も当町にあった(宝暦町鑑)江戸期は南艮組の西雲組に属し,27軒の軒役を負担また,祇園会に際しては鯉山町の寄町として1斗5升の地ノ口米を負担した明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】5番組,同5年第5区と改称,同25年第5学区に編成明治12年下京区八百屋町,同22年京都市下京区八百屋町,昭和4年中京【なかぎよう】区八百屋町となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~昭和46年の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の北,紫川河口左岸に位置する西曲輪のうち毛利勝信在城時は片側町であったが,細川氏時代に拡張され,魚町とともに成立したという(小倉市誌)寛永年間には町内住人の瓜買込の様子が知られる(日帳)西は魚町,東は紫川河口船着場,南は室町に接し,北は海に面した東西10間余の町並みで,幕末期には町家58軒余を数え,博多屋・筑後屋・長門屋・赤間屋・今井屋・苅田屋・平戸屋・中津屋・丹後屋・小祝屋・薩摩屋・恒見屋など地名を屋号にする店が多い(城下町屋敷絵図)東北の角に獄屋があり,文久2年尊王攘夷運動に呼応した英彦山僧侶は同所に投獄された享保の飢饉による餓死者15人(開善寺過去帳)明治17年の戸数12・人口64同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年からは北九州市小倉区に所属同46年宝町1~3丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は相川の1町相川之図(佐渡志)によれば,町並みは東西に続き,東は味噌屋町,西は下京町に接する町名は,慶長年間に八百屋が集住したことに由来元禄7年検地帳では屋敷6反余,屋敷数は北側2・南側11相川町々書上では,町並み62間余,町屋敷6反余,町並みの南に山田という地所があるもと山師山田佐兵衛が居住していたことに由来するもので,町屋敷494坪のうち八百屋町地390坪・味噌屋町地104坪同地では貞享4年山吹銀375匁・印銀16匁の詰められた瓶が出土文政9年墨引帳では竈数17,拝領地役人3・抱地役人2・商人2など明治6年の人口97同22年相川町に所属昭和48年の人口52...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名楊梅通西洞院東入の町寛永14年洛中絵図にすでに見えるもとは慶長7年から寛永17年の公認遊里の一画江戸期は川西九町組の毘沙門組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】16番組,同5年第24区と改称,同25年第24学区に編成明治12年下京区八百屋町,同22年京都市下京区八百屋町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)34.7%減...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

八百屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は柳川城下の1町明治11年の耕宅地6反,戸数26・人口108(県史資料2)同22年柳河町,昭和26年柳川町,同27年からは柳川市に所属同55年の世帯数22・人口76...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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