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- 六間町(近世)とは
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六間町(近世) 江戸期~明治初年の町名大野町のうち天正年間金森長近の町作りが行われ,天正直方型道筋が南北6本・東西6本つけられ,当町は寺町蓮光寺前から一番町上町角までの東西の横通りで道幅24尺(のち明治32年に拡張される)であった特筆すべき建物は,四番町と五番町角まで32間余四方の敷地をもつ城下町一番の鍋屋瀬古清左衛門の屋敷があった一番町角に大野町一番の仕出し料亭油喜・一柳伊助店があり,北側には御典医笹島道忠の屋敷があった家数などは行政的には縦通りの庄屋や区長に属しているので定かでない明治初年縦通りの町の一部となったと思われるが,不詳 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
六間町(近世) 江戸期~明治5年の町名堺町のうちはじめ北本郷,元禄6年北組に所属文久3年改正の堺大絵図によると,大道筋の北旅籠町から東へ3筋めには高須町とあるが,元禄年間の地図では同地を六間町と記す元禄8年の「手鑑」によると地子銀59匁・役家数29軒,享保5年には家役数28役(堺市史5),寛政11年の石銀家数寄帳では家数31軒・地子銀59匁余・家役数30役(全志5)「石橋泉州志」に「今遊女町也」と記されており,地内には六間町遊郭があり,享保年間頃には傾城屋10軒・揚屋4軒を数えたが次第に衰退,明治5年廃止された同年北旅籠町東1~2丁となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」