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- 若宮町(近世~近代)とは
「若宮町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 若宮町(近世~近代)
江戸期~現在の町名河原町通上之口西入の町枳殻邸の北,河原町通に面する町寛文12年洛中洛外大図では,河原町通を隔てた東側に位置する現在の大工町を「東大工町」,当町...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7380949]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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若宮町(近世~近代) 江戸期~現在の町名若宮通六条下ルの町若宮通に面する両側町天正19年に西本願寺寺内町となる以前,当地には若宮八幡宮があったが,同社は天正12年東山へ移転,その後も住民たちは私的に八幡宮を祀ったといい(坊目誌),町内東側には若宮八幡宮が現存する寛永14年洛中絵図には「若宮図子一丁目」,寛文12年洛中洛外大図には「若宮辻一丁目」,天明6年洛中洛外大図には「若宮通一丁目」とあるが,「京雀」には「若宮町」と見えるまた「寺内歳時記」(村上文治家文書)には「若宮一町目」と記す当町は地子負担をする地子屋敷町の1つ(寺内歳時記)浄土真宗本願寺派唯念寺・専想寺があった唯念寺は元和7年僧祐玄開基,明治29年廃止となる専想寺は享保2年5月僧智哲開基,明治39年岐阜県へ移転(坊目誌)「表処置録」(村上文治家文書)には,唯念寺は堂達,専想寺は三十日番としてあげるまた六条通新町西入所を鼠小路・鼠の辻子と称したという(京羽津根・坊目誌)江戸期は西本願寺寺内町の若宮組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区若宮町,同22年京都市下京区若宮町となり現在に至る世帯数・人口は,明治44年85世帯・352人,大正14年96世帯・403人,昭和40年81世帯・334人人口増減率(昭和40~50年)29.3%減 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
若宮町(近世~近代) 江戸期~現在の町名木屋町通七条下ル東入の町はじめは「南裏町」と呼ばれていたが,元治元年10月「若宮町」と改称(府地誌)「坊目誌」によれば,もと妙法院門跡領の耕地であったが,文政の頃町地になったというしかし「宝暦町鑑」にはすでに七条新地の中の1町として南裏町の名が見えるから,この頃には町地化していたと思われる明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】18番組,同5年第26区と改称,同25年第26学区に編成明治12年下京区若宮町,同22年京都市下京区若宮町となり現在に至る世帯数・人口は,明治44年6世帯・27人,大正14年32世帯・123人,昭和40年38世帯・140人人口増減率(昭和40~50年)55.7%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」