ケータイ辞書JLogosロゴ 赤坂(中世)


大阪府>千早赤阪村

 南北朝期から見える地名。河内国石川郡のうち。「太平記」巻第3の元弘元年9月に「楠兵衛正成ト云者,御所方ニ成テ旗ヲ挙ル間……赤坂山ニ城郭ヲ構ヘ,其勢五百騎ニテ楯籠リ候」とあり,後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕計画に呼応して当地で挙兵したことが知られる。しかし10月には六波羅勢の攻撃の前に落城した。この後,建武4年11月4日の田代基綱軍忠状(田代文書/大日料6-3)に,「同(10月)十九日,楠木赤坂御向之時,御敵数百人山城東岸上懸出之処……」「於松崎赤坂,致随分之合戦」などと見える。次いで,延文5年7月日の芥河岡三郎左衛門尉平基茂軍忠状写(甲子夜話続編/高槻市史3)に「五月八日至東条赤坂柿木城」とありまた,「愚管記」(続大成)の延文5年5月1日条に「河州凶徒城三ケ所責落云々,天下大慶也,於今者楠木赤坂城之外不相残云々」,同月10日条には「楠木赤坂城没落云々」と見え,足利義詮によって南朝勢力が攻撃されたことが知られる。室町期に入って,長禄3年から始まる畠山氏の家督相続の争いで,家督を追われた義就が河内嶽山城に籠城したが,寛正4年4月9日の室町将軍家御教書(毛利家文書4/大日古)に「去六日,於河州赤坂之合戦」とあり,当地で合戦があったことが知られる。永禄5年8月10日の河内夏季段銭皆済状(真観寺文書/八尾市史)に「納上 河内夏季恒例段銭事……右皆済如件 石川 赤坂御堂(花押)」とあり,この花押は三好康長である。赤坂御堂は,天文7年6月24日の徳蔵軒正宣書状(同前)に「真観寺之内鄧林庵領赤坂竜昌院安養寺分事,先年以御和与之筋目一円被返付候訖」とあり,赤坂の竜昌院安養寺であろうかと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381024
最終更新日:2009-03-01




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