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飛鳥(古代)


 奈良期から見える地名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7381065]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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飛鳥(古代)

飛鳥期から見える広域地名阿須箇・明日香・阿須可・安須可・阿須迦などとも書く特に明日香と書く例が多い飛鳥川の上流から大和三山に囲まれた地域までの凡称「古事記」履中段に遠飛鳥・近飛鳥についての地名伝承が見え,允恭天皇は「遠飛鳥宮」(古事記允恭段・万葉集90左注),顕宗天皇は「近飛鳥宮」(古事記顕宗段)・「近飛鳥八釣宮」(顕宗紀元年正月己巳条)に宮居を定めたと伝承されるこの飛鳥につけられた遠近の区別については,水歯別命(反正天皇)の河内丹比の柴垣宮からの遠近,または「記」「紀」の成立した藤原京・平城京からの遠近によるとする説,時代の新旧を区別するために付けられたとする説などがある具体的な比定地についても,河内飛鳥(現羽曳野市飛鳥)を近飛鳥と考える説があり,現在の明日香村・橿原市付近に限定できないその後,推古天皇の飛鳥豊浦宮から和銅3年に元明天皇が平城京に都を遷すまでの約100年間は,一時的に難波や近江へ宮が移動したことを除けば,終始この地域に宮が集中して営まれた推古天皇の豊浦宮・小墾田宮,舒明天皇の飛鳥岡本宮・田中宮・厩坂宮,皇極天皇の飛鳥板蓋宮,斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武天皇の飛鳥浄御原宮などの多くは広義の飛鳥地域に所在したと考えられるただし,これら諸宮の正確な位置や遺跡は判明していない「書紀」によれば,諸宮の置かれた地域を総称して倭京あるいは単に京・京師・都と記している倭京は難波京や近江京に対して用いられた名称だが,飛鳥京とは称されていない京制が整備されてくるのは天武朝以後であり,それ以前は条坊制の施行,京職(特別行政区画)の設置,王族・豪族の集住などはまだ不十分であったと推定される(天武紀5年9月乙亥条・同9年5月乙亥条・同14年3月辛酉条など)たとえば,山背大兄皇子は推古朝末年に叔父蘇我蝦夷の病を見舞った時,「京に向きて豊浦寺に居りき」(舒明即位前紀)と見え,上宮王家は飛鳥に恒常的な宿泊施設を有していなかったことが知られ,京域内における王族の集住は当時まだ不十分であったなお,「書紀」で京と称された一定の区域は,下ツ道・中ツ道および山田道などを基準に設定され,条坊制に類する地割や道路が設定されていたことが発掘調査から明らかとなった特に中ツ道は天ノ香久山で中断されているが,その延長線上には飛鳥寺・川原寺・橘寺・伝飛鳥板蓋宮が存在するこれらの地割や道路がいつ頃整備されたかは明らかではないが,推古朝から7世紀後半までの間に施行された可能性が高い宮名に飛鳥を冠するものとしては,まず岡本宮があげられる舒明天皇2年天皇は飛鳥岡の傍に遷り,岡本宮と称したとある(舒明紀2年10月癸卯条)飛鳥岡は後に持統・文武の両天皇が火葬された場所である(続紀大宝3年12月己巳条・同慶雲4年11月丙午条)のちに,斉明天皇は夫の舒明天皇の宮跡に再び宮を作り,「後飛鳥岡本宮」と称した(斉明紀2年是歳条)比定地については,飛鳥岡が問題となるが,岡寺付近(現明日香村岡)とする説や,大官大寺の西が岡本田と称されたことから(神護景雲元年12月1日符/三代格15),現在の明日香村小山付近を岡本宮の所在地とし,南方の雷丘【いかずちのおか】またはその東北の小丘を飛鳥岡に比定する説がある(飛鳥誌など)なお,「万葉集」巻1に舒明天皇は「飛鳥岡本宮御宇天皇」(8左注)と表記され,天平19年の大安寺資財帳(寧遺中)には「飛鳥岡基宮御宇天皇」,船首王後墓誌(寧遺下)には「阿須迦宮治天下天皇」とも見える次は,皇極(斉明)天皇の板蓋宮・川原宮だが,皇極天皇2年に「権宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す」(皇極紀2年4月丁未条)とあるその後,大化元年に至り,孝徳天皇が難波長柄豊碕宮へ遷都を行い,一時板蓋宮は廃止の状態におかれたが,孝徳天皇の死後は皇極天皇が重祚し,再び板蓋宮で即位した(斉明紀元年正月甲戌条)同年の冬,飛鳥板蓋宮で火災がおこり,飛鳥川原宮に遷居したと見える(斉明紀元年是冬条)「書紀通釈」は,「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」(霊異記上9),「都大和国飛鳥宮,一云川原板蓋宮」(扶桑略記皇極天皇元年9月条)と見えるところから,川原宮と板蓋宮は同所とし,板蓋は板蓋造の川原宮別宮とする「大和志」は川原宮を現在の明日香村飛鳥・岡付近に比定する板蓋宮については,同村岡の北方に伝承地が残るなお,川原宮は白雉4年に中大兄皇子が皇極上皇(皇祖母尊),間人皇后,大海人皇子(皇弟)らを奉じて,難波から移った「飛鳥河辺行宮」(孝徳紀白雉4年是歳条)と同所とする説がある飛鳥河辺行宮は現在の明日香村稲淵の宮殿遺跡に,川原宮は同村川原の川原寺付近に比定する説が有力である斉明天皇7年には「天皇の喪を以て,飛鳥の川原に殯す」ともある(斉明紀7年11月戊戌条,家伝上/寧遺下)「万葉集」は斉明天皇を「明日香川原宮御宇天皇」(7標目)と表記する天智天皇が近江に都を移した後も(天智紀6年3月己卯条),飛鳥には「留守司」が置かれていた(天武紀元年6月甲申・己丑是日条)壬申の乱の際,近江朝廷側は興兵使を飛鳥に送り,小墾田【おはりだ】の兵庫から武器を近江に送らせたが,大海人皇子(天武天皇)側についた大伴吹負は百済家から飛鳥を奇襲して留守司高坂王らを降伏させ,占拠した(同前元年6月己丑是日条)大海人皇子は飛鳥にもどり浄御原宮を造営し,そこで即位する(同前元年是歳条・同2年2月癸未条)なお,朱鳥元年に「元を改めて朱鳥元年と曰ふ仍りて宮を名けて飛鳥浄御原宮と曰ふ」と見え(同前朱鳥元年7月戊午条),朱鳥元年に至って,その建元と同時に初めて飛鳥浄御原という宮号を命名したことが知られる浄御原宮については,伝承飛鳥板蓋宮跡(現明日香村岡)の上層遺構に比定する説や飛鳥寺北方の石神遺跡(現明日香村飛鳥)とする見解があり,所在地は確定していない鸕野皇女(持統天皇)に関しても,「天下を有むるに及りて,飛鳥浄御原宮に居します」と見える(天智紀7年2月戊寅条)「万葉集」巻2にも,持統天皇3年4月に薨去した草壁皇子の殯の時,柿本人麻呂が作った長歌に「飛鳥の浄の宮」(167),同7年9月9日の天武天皇の御斎会の夜,持統天皇が夢の中で習ったと伝えられる長歌に「明日香の清御原の宮」(162)と見えるまた,題詞や左注にも「明日香宮」(21注・51題詞),「明日香清御原宮」(103標目・156標目・1465題詞注)とある金石文などには,飛鳥清御原宮治天下天皇(小野毛人墓誌/寧遺下),飛鳥清御原大宮治天下天皇(同前),飛鳥清御原大宮治天下天皇(銅版法華説相図銘/寧遺下),飛鳥浄原大朝庭(采女氏塋域碑/同前),飛鳥浄原宮御宇天皇(天平勝宝8年6月21日東大寺献物帳/大日古編年4),飛鳥清原大宮(古事記序文)などと見える平城遷都後も,飛鳥には小治田宮(続紀天平宝字4年8月辛未・乙亥条,同5年正月丁酉条,天平神護元年10月辛未条),小治田岡本宮(続紀天平宝字5年正月癸巳条),島宮(天平勝宝2年2月24日官奴司解/寧遺下,天平5年興福寺西金堂造仏所作物帳/大日古編年1など),武部(兵部)省曹司(続紀天平宝字5年正月丁酉条)などが存在した「万葉集」巻1に,「和銅三年庚戌の春二月,藤原宮より寧楽宮に遷りましし時に,御輿を長屋の原に停めて逈かに古都を望みて作る歌」として詠まれた「明日香の里」(78)は藤原京までを含む広義の飛鳥を示すなお,「新古今集」巻10にもこの歌は収められている(896)「万葉集」には「明日香風」(51),「飛鳥壮【おとこ】」(3791)の語も見える「枕草子」に「市は……あすかのいち」とあるが実体は不明

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

飛鳥(古代)
飛鳥期から見える広域地名阿須箇・明日香・阿須可・安須可・阿須迦などとも書く特に明日香と書く例が多い飛鳥川の上流から大和三山に囲まれた地域までの凡称「古事記」履中段に遠飛鳥・近飛鳥についての地名伝承が見え,允恭天皇は「遠飛鳥宮」(古事記允恭段・万葉集90左注),顕宗天皇は「近飛鳥宮」(古事記顕宗段)・「近飛鳥八釣宮」(顕宗紀元年正月己巳条)に宮居を定めたと伝承されるこの飛鳥につけられた遠近の区別については,水歯別命(反正天皇)の河内丹比の柴垣宮からの遠近,または「記」「紀」の成立した藤原京・平城京からの遠近によるとする説,時代の新旧を区別するために付けられたとする説などがある具体的な比定地についても,河内飛鳥(現羽曳野市飛鳥)を近飛鳥と考える説があり,現在の明日香村・橿原市付近に限定できないその後,推古天皇の飛鳥豊浦宮から和銅3年に元明天皇が平城京に都を遷すまでの約100年間は,一時的に難波や近江へ宮が移動したことを除けば,終始この地域に宮が集中して営まれた推古天皇の豊浦宮・小墾田宮,舒明天皇の飛鳥岡本宮・田中宮・厩坂宮,皇極天皇の飛鳥板蓋宮,斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武天皇の飛鳥浄御原宮などの多くは広義の飛鳥地域に所在したと考えられるただし,これら諸宮の正確な位置や遺跡は判明していない「書紀」によれば,諸宮の置かれた地域を総称して倭京あるいは単に京・京師・都と記している倭京は難波京や近江京に対して用いられた名称だが,飛鳥京とは称されていない京制が整備されてくるのは天武朝以後であり,それ以前は条坊制の施行,京職(特別行政区画)の設置,王族・豪族の集住などはまだ不十分であったと推定される(天武紀5年9月乙亥条・同9年5月乙亥条・同14年3月辛酉条など)たとえば,山背大兄皇子は推古朝末年に叔父蘇我蝦夷の病を見舞った時,「京に向きて豊浦寺に居りき」(舒明即位前紀)と見え,上宮王家は飛鳥に恒常的な宿泊施設を有していなかったことが知られ,京域内における王族の集住は当時まだ不十分であったなお,「書紀」で京と称された一定の区域は,下ツ道・中ツ道および山田道などを基準に設定され,条坊制に類する地割や道路が設定されていたことが発掘調査から明らかとなった特に中ツ道は天ノ香久山で中断されているが,その延長線上には飛鳥寺・川原寺・橘寺・伝飛鳥板蓋宮が存在するこれらの地割や道路がいつ頃整備されたかは明らかではないが,推古朝から7世紀後半までの間に施行された可能性が高い宮名に飛鳥を冠するものとしては,まず岡本宮があげられる舒明天皇2年天皇は飛鳥岡の傍に遷り,岡本宮と称したとある(舒明紀2年10月癸卯条)飛鳥岡は後に持統・文武の両天皇が火葬された場所である(続紀大宝3年12月己巳条・同慶雲4年11月丙午条)のちに,斉明天皇は夫の舒明天皇の宮跡に再び宮を作り,「後飛鳥岡本宮」と称した(斉明紀2年是歳条)比定地については,飛鳥岡が問題となるが,岡寺付近(現明日香村岡)とする説や,大官大寺の西が岡本田と称されたことから(神護景雲元年12月1日符/三代格15),現在の明日香村小山付近を岡本宮の所在地とし,南方の雷丘【いかずちのおか】またはその東北の小丘を飛鳥岡に比定する説がある(飛鳥誌など)なお,「万葉集」巻1に舒明天皇は「飛鳥岡本宮御宇天皇」(8左注)と表記され,天平19年の大安寺資財帳(寧遺中)には「飛鳥岡基宮御宇天皇」,船首王後墓誌(寧遺下)には「阿須迦宮治天下天皇」とも見える次は,皇極(斉明)天皇の板蓋宮・川原宮だが,皇極天皇2年に「権宮より移りて飛鳥の板蓋の新宮に幸す」(皇極紀2年4月丁未条)とあるその後,大化元年に至り,孝徳天皇が難波長柄豊碕宮へ遷都を行い,一時板蓋宮は廃止の状態におかれたが,孝徳天皇の死後は皇極天皇が重祚し,再び板蓋宮で即位した(斉明紀元年正月甲戌条)同年の冬,飛鳥板蓋宮で火災がおこり,飛鳥川原宮に遷居したと見える(斉明紀元年是冬条)「書紀通釈」は,「飛鳥川原板葺宮御宇天皇」(霊異記上9),「都大和国飛鳥宮,一云川原板蓋宮」(扶桑略記皇極天皇元年9月条)と見えるところから,川原宮と板蓋宮は同所とし,板蓋は板蓋造の川原宮別宮とする「大和志」は川原宮を現在の明日香村飛鳥・岡付近に比定する板蓋宮については,同村岡の北方に伝承地が残るなお,川原宮は白雉4年に中大兄皇子が皇極上皇(皇祖母尊),間人皇后,大海人皇子(皇弟)らを奉じて,難波から移った「飛鳥河辺行宮」(孝徳紀白雉4年是歳条)と同所とする説がある飛鳥河辺行宮は現在の明日香村稲淵の宮殿遺跡に,川原宮は同村川原の川原寺付近に比定する説が有力である斉明天皇7年には「天皇の喪を以て,飛鳥の川原に殯す」ともある(斉明紀7年11月戊戌条,家伝上/寧遺下)「万葉集」は斉明天皇を「明日香川原宮御宇天皇」(7標目)と表記する天智天皇が近江に都を移した後も(天智紀6年3月己卯条),飛鳥には「留守司」が置かれていた(天武紀元年6月甲申・己丑是日条)壬申の乱の際,近江朝廷側は興兵使を飛鳥に送り,小墾田【おはりだ】の兵庫から武器を近江に送らせたが,大海人皇子(天武天皇)側についた大伴吹負は百済家から飛鳥を奇襲して留守司高坂王らを降伏させ,占拠した(同前元年6月己丑是日条)大海人皇子は飛鳥にもどり浄御原宮を造営し,そこで即位する(同前元年是歳条・同2年2月癸未条)なお,朱鳥元年に「元を改めて朱鳥元年と曰ふ仍りて宮を名けて飛鳥浄御原宮と曰ふ」と見え(同前朱鳥元年7月戊午条),朱鳥元年に至って,その建元と同時に初めて飛鳥浄御原という宮号を命名したことが知られる浄御原宮については,伝承飛鳥板蓋宮跡(現明日香村岡)の上層遺構に比定する説や飛鳥寺北方の石神遺跡(現明日香村飛鳥)とする見解があり,所在地は確定していない鸕野皇女(持統天皇)に関しても,「天下を有むるに及りて,飛鳥浄御原宮に居します」と見える(天智紀7年2月戊寅条)「万葉集」巻2にも,持統天皇3年4月に薨去した草壁皇子の殯の時,柿本人麻呂が作った長歌に「飛鳥の浄の宮」(167),同7年9月9日の天武天皇の御斎会の夜,持統天皇が夢の中で習ったと伝えられる長歌に「明日香の清御原の宮」(162)と見えるまた,題詞や左注にも「明日香宮」(21注・51題詞),「明日香清御原宮」(103標目・156標目・1465題詞注)とある金石文などには,飛鳥清御原宮治天下天皇(小野毛人墓誌/寧遺下),飛鳥清御原大宮治天下天皇(同前),飛鳥清御原大宮治天下天皇(銅版法華説相図銘/寧遺下),飛鳥浄原大朝庭(采女氏塋域碑/同前),飛鳥浄原宮御宇天皇(天平勝宝8年6月21日東大寺献物帳/大日古編年4),飛鳥清原大宮(古事記序文)などと見える平城遷都後も,飛鳥には小治田宮(続紀天平宝字4年8月辛未・乙亥条,同5年正月丁酉条,天平神護元年10月辛未条),小治田岡本宮(続紀天平宝字5年正月癸巳条),島宮(天平勝宝2年2月24日官奴司解/寧遺下,天平5年興福寺西金堂造仏所作物帳/大日古編年1など),武部(兵部)省曹司(続紀天平宝字5年正月丁酉条)などが存在した「万葉集」巻1に,「和銅三年庚戌の春二月,藤原宮より寧楽宮に遷りましし時に,御輿を長屋の原に停めて逈かに古都を望みて作る歌」として詠まれた「明日香の里」(78)は藤原京までを含む広義の飛鳥を示すなお,「新古今集」巻10にもこの歌は収められている(896)「万葉集」には「明日香風」(51),「飛鳥壮【おとこ】」(3791)の語も見える「枕草子」に「市は……あすかのいち」とあるが実体は不明...

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1946(昭和21)年のこの日、GHQの指示により、東京警視庁に日本で初めて婦人警官62名が採用されました。当時はほとんどが事務職でしたが、現在では女性白バイ隊など幅広い職種で働いています。

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