ケータイ辞書JLogosロゴ 東坂荘(古代)


大阪府>千早赤阪村

 平安期〜鎌倉期に見える荘園名。河内国石川郡のうち。観心寺領。初見は,元慶7年9月15日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書/大日古)で,諸荘事の石川郡庄八か所のうちに「東坂庄 地弐拾余町 四至〈東限岑 南限上滝 西限岑 北限石川家堰〉……右,太政官承和三年三月十三日官符施入」とあり,次いで「水田参町弐段 右,貞観十一年六月九日民部省符施入」とあり,官省符荘であることが知られる。これ以前の承和4年3月3日の観心寺縁起実録帳の応永元年10月15日の後亀山天皇による写し(同前)に「石川郡以南山中五百町〈地名東坂野〉……承和三年閏三月十三日 官符」と見える。このほかに応永18年6月日の畠山満家観心寺重書紛失状(同前)には当荘に関する多くの文書案が収められている。寛治元年5月22日の河内国庁宣案では「下(可)早任度々宣旨免除観心寺領山内東坂小吹石川東西条錦部古市郡等田畠地子状」とあり,田畠地子の徴納は寺家の使をもってするとある。次いで長治2年10月日の河内国庁宣案に「早可令停止観心寺所領山内并東坂庄検田切物臨時雑役等事」とあり,臨時雑役などが免除されたことが知られ,同内容の河内国庁宣案が天仁元年12月日から久安2年7月3日までの8通ある。仁平2年8月17日の高階朝臣下文案では「野宮役」が免除されている。永万元年11月29日の下文案には,「可早停止其妨東坂御田所当御稲間抑留観心寺仏聖米事」とあり,石川東条御稲田供御人等が観心寺の仏聖米を抑留した事実が知られる。また,建仁3年6月28日の河内国庁宣案に「可令早任度々宣旨并後白河院御下文免除観心寺東坂等国役雑事及践祚大嘗会初斎院事等事」とあり,石川郡の住人が勝手に材木を切り取ることを停止している。建久3年8月27日の河内国庁宣案にも「可早免除観心寺加納東坂 勅院事并国役事」とある。元亨元年かと思われる2月29日の後宇多院院宣案には「観心寺領東坂庄事,奏聞之処,不叙用院宣云々為事実者,太以不可然」とあり,荘園経営の困難さを物語っている。当荘は,ほかの観心寺の諸荘園が平安末期頃までに消滅していく中で,わずかに鎌倉期まで残存する荘園である。なお,応永期に本紛失状が成立したことは,あるいは当荘がこの頃まで存続し観心寺の経営が維持されたものか,あるいはすでに経営が維持できなくなっていたが寺領として再建しようとしたものか明らかでない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381073
最終更新日:2009-03-01




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