ケータイ辞書JLogosロゴ 井於荘(中世)


大阪府>茨木市

平安末期〜戦国期に見える荘園名摂津国島下郡のうち「長秋記」の大治5年3月4日条に「井於庄遣使雑色常季」とあるのが初見その後建武4年4月21日の足利尊氏下文(仁木文書/大日料6-4)に「可令領知摂津国井於新庄・越中国松山保〈右馬権頭義時跡〉……地頭職事」とあり,勲功の賞として仁木義有に宛行っている「大館常興日記」の天文9年7月記裏文書の年月日・差出所・宛所不詳の書状断簡に「御知行分摂州井於新庄弐分方御公用運上注文并補任請文案文等被懸御意候」とあり,天文11年閏3月14日条には「飯中大へ遣状,井於新庄公用去年分事……去年分ハ不及令沙汰由池田申につき為請切さた候」と池田氏に請切にすることを申し入れたが,少分でなく去年分一円に沙汰するのでなければ承諾しないというので茨木長隆から書状を遣わしたと見える(続大成)また,「守光公記」永正15年12月24日条所載の女房奉書に「ゐおのほんしやう三ふん一」とあり,大炊御門経名の家領として安堵すべきことを武家伝奏の広橋守光に命じたことが知られる以上から南北朝期には,当荘は本荘と新荘に分かれていたものと思われるなお「延喜式」神名帳の「摂津七十五座」のうちに「井於神社〈鍬靫〉」とある(高槻市史3)当荘は現在の蔵垣内【くらかきうち】を中心とした旧三宅村付近と考えられる(茨木市史)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381205
最終更新日:2009-03-01




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