ケータイ辞書JLogosロゴ 石井荘(中世)


大阪府>茨木市

平安期〜戦国期に見える荘園名摂津国島下郡のうち初見は安元2年2月日付の八条院領目録(山科家古文書/平遺5060)で,「弘誓院御庄々」のうちに「摂津国三嶋 石井 富嶋」とある当荘の領主変遷は承久4年4月5日の太政官牒ならびに太政官符(随心院文書/鎌遺2940・2941)にも詳しく見え,これらの文書によれば当荘の本領主は三島荘・富島荘とともに長覚の先祖となっている長覚はこれらの先祖相伝の家領を河内の一志賀荘とともに美福門院(藤原得子)の御願寺弘誓院に寄進して皇室領とし,皇室を本家と仰いで自ら預所となったことが知られる当荘はさらに美福門院から八条院に譲られ,以後弘誓院領3か荘は八条院領を形成する荘園の1つとなったまたこれらの文書によれば,鎌倉期には預所の非法が続き,当荘では預所少将局が山門の凶徒と組んで当荘を日吉真子宮へ寄進したり,荘田2町7反を勝手に売却するなどの非法が行われたことが知られるこの弘誓院領の預所の非法停止を命じるために出されたのが承久4年の同官牒ならびに官符であったなお当荘には摂関家垂水東牧の住人が出作して加納田を形成して,雑役を摂家に,年貢を八条院に納めていたしかし領主八条院側ではこの加納田を押取したようで,正治元年11月日の垂水東牧加納田牧役注文(永昌記紙背文書/吹田市史4)によると,権門に押収された田数として「石井庄五町二段大 八条院(暲子内親王)領」と見えるその後当荘は嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録(竹内文平所蔵文書/広島県史資料編5)に「弘誓院 厳家僧正門跡相承」として伝領されたことがわかる応仁の乱以後は「北野社家日記」中に当荘名が散見し(纂集),当荘の北野社領としての存在が確認されるたとえば延徳元年12月3日条に見える同年月日の神用請取状には「請取申北野社領摂州石井庄神用事 合拾柒貫文者」とあるまた延徳2年3月4日条に見える同年2月25日の細川政元書状案には北野宮寺領の内,丹波国ならびに当荘を含む摂津国諸荘を守護不入の地とする旨が記されている当荘は,現在の茨木【いばらき】市の東部付近に比定される(府史)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381275
最終更新日:2009-03-01




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