ケータイ辞書JLogosロゴ 石川(古代)


大阪府>河南町

 奈良期から見える地名。河内国石川郡のうち。「日本書紀」敏達天皇12年条に,百済【くだら】より招かれた日羅が殺されたのち,「其の妻子・水子等を以て,石川に居かしむ」とあり,皇極天皇元年条には,百済大使翹岐の子供が死んだ時,「人を遣りて児を石川に葬らしむ」とある。天平勝宝元年10月14日,孝謙天皇は「石川之上」に行幸し,志紀・大県【おおがた】・安宿【あすかべ】3郡の百姓が綿を賜っている(続日本紀)。「三代実録」元慶元年12月27日条によれば,右京人前長門守従五位下石川朝臣木村の始祖である「武内宿禰男宗我石川」は「河内国石川別業」に生まれたため石川をもって名としたという。そのほか石川氏の記事は,「日本書紀」などに散見し,仁徳天皇41年条に百済人の「酒君」が「石川錦織首許呂斯」の家に逃げ隠れたという話がある。この許呂斯は,天平3年7月5日のものと伝えられる(延暦年間頃とする説もある)住吉大社司解にも山預として見える(住吉大社神代記/平遺補1)。また,「日本書紀」仁徳天皇14年条に「大溝を感玖に掘る。乃ち石河の水を引きて」開拓がなされたとあり,地内を流れる石川の灌漑については,前述の住吉大社司解にも見える。そのほか,「続日本後紀」承和12年9月19日条によれば,「石川竜田両河洪流」を引いて西海に通じさせたという。なお,催馬楽に「石川の 高麗人に 帯をとられて」と歌う呂歌が収められている(古代歌謡集/古典大系)。のち,平安中期頃には当地内の田畠は観心寺領となっており,寛治元年5月22日付の河内国司庁宣案に「免除観心寺領山内東坂・小吹・石川……等田畠地子」と見える(観心寺文書/平遺1254)。現在の河南【かなん】町の東山・一須賀・大ケ塚付近から富田林【とんだばやし】市・河内長野市・千早赤阪村にかけての石川流域の一帯と推定される。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381276
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ