ケータイ辞書JLogosロゴ 石川荘(中世)


大阪府>河南町

 平安期〜戦国期に見える荘園名。石川郡のうち。建永2年7月8日の僧深慶某寺領注進状(正木直彦氏所蔵文書/羽曳野市史4)に「河内国石川庄 源義⊏⊐領河内国東条⊏⊐田畠⊏⊐事 合 杜屋里 卅三坪町……已上 康治二年注文定」と康治2年の田畠坪付があるのが初見。本文書から康治2年に当荘は30余の里・字地に田畠70町余が成立していることが知られる。なお,本文書の義□は源義家の子義時か孫の義基と考えられており,当地は河内石川源氏の本拠地である。石川源氏は源頼信が河内守に補任され古市郡壺井に居館を構えたことに始まり,義昭がはじめて苗字に石川を称して以後,代々継承されていく。当荘は義家の頃に石川東条の農民などから寄進されて成立したものと思われる。平治元年閏5月26日の石川荘油代糸徴符(兵範記裏文書/平遺2983)には「石川御庄 七十二分御油代糸徴之事 合 千永三分……已上十七両二分」と見える。その後,当荘は義基かその子義兼の頃に七条院に寄進されたと思われ,正安4年の室町院御領目録には「七条院御領 河内国石川荘〈御別相伝 前将軍家御分〉□〈一条中納言〉」と見え,七条院から将軍頼経さらに室町院に譲られ,持明院統領となった。このように伝領されたのは本家職であるが,領家職は将軍頼経から式乾門院に相伝され,建長2年11月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書1/図書寮叢刊)に「宣仁門院〈洞院摂政(九条教実)長女〉泉涌寺新御堂〈四条院御墓所〉寺領 河内国石川庄……已上二箇所,式乾門院被寄付之」と見え,式乾門院から泉涌寺新御堂に寄付されたことがわかる(府史)。鎌倉期には在地ではなお石川源氏による支配が続いていたと思われるが,南北朝期に入って建武3年3月27日の足利尊氏下文案(肥前有浦文書/南北遺524)には「可令早領知日向国浮田庄・肥後国菊地郡内庶子等分・河内国石河庄事」とあり,松浦一族に勲功賞として宛行われている。この後戦国期の天正13年5月14日の九条家不知行所々指出目録案(九条家文書1/図書寮叢刊)に「河内国 石川庄」があげられている。なお,当荘は河南町・千早赤阪村・富田林市・羽曳野【はびきの】市に散在していたと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381278
最終更新日:2009-03-01




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