ケータイ辞書JLogosロゴ 石津郷(古代)


大阪府>堺市

 奈良期〜平安期に見える郷名。「和名抄」和泉国大鳥郡十郷の1つ。「和名抄」の訓は「以之都」。「日本書紀」仁徳天皇67年条に,同天皇が「河内の石津原に幸して,陵地を定めたまふ」とあり,当地は古くは石津原と称されている。同条によれば,石津原は「百舌鳥耳原」とも号され,「百舌鳥野」と同一とも考えられ,土師【はぜ】郷などを含む広い地域をさすと推定される。平安期になると「土佐日記」「更級日記」などに当地名が散見し,「土佐日記」には「いしづといふところのまつばらおもしろくて」と記されている。また,延喜22年4月5日付の和泉国大鳥神社流記帳によれば,当地名は,「難波長柄豊前朝廷」の御領である「伊岐宮」を造るための石を讃岐国から当津へ運んできたことにちなむという(大鳥大明神文書/平遺218)。なお同文書には,大鳥神社の「四季御贄料」とする「浜弐浦」の北限として「石津川」が見える(同前)。そのほか,地名由来は蛭児命が当地の海岸に漂着し五色の神石を置いたことによるとする説もある(堺市史続編1)。「新撰姓氏録」和泉国神別に「石津連 天穂日命十四世孫野見宿禰之後也」と見える石津氏が当郷を本貫としていたと推定され,瑜伽師地論巻26には,天平2年9月「和泉監大鳥郡日下部郷石津連大足」が写経した旨が記される(知恩院所蔵文書/寧遺中)。「続日本紀」天平勝宝元年10月25日条によれば,「無位石津王」が従五位下を授けられており,当郷に関係のある人物と考えられる(全志5)。また,当郷内には「延喜式」神名帳に「大鳥郡廿四座」の1つとして見える「石津太社神社」がある。なお,江戸期の上石津村絵図に,二ノ坪・三ノ坪・六坪・七坪・八坪・十ノ坪などの地名が見えることから,当地は条里遺構をもち,当郷の条里は千鳥型式で東西南北にひかれているという(堺市史続編1)。また,履中天皇陵環濠の貯水が,灌漑用水として利用されている(同前)。古代の郷域は,現在の堺市の石津町・石津ケ丘などの石津地区,および神石市之町・旭ケ丘地区・緑ケ丘地区・浜寺石津町などの一帯と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381300
最終更新日:2009-03-01




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