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- 稲田村(近世)とは
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稲田村(近世) 江戸期~明治10年の村名会津地方北部,田付川東岸に位置する耶麻【やま】郡のうち会津藩領小田付組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では655石余,文化15年の村日記(県史10下)では490石余,「天保郷帳」491石余,「旧高旧領」524石余「会津雑考」天正13年の条に,会津へ侵入した伊達政宗の部将新田常陸が稲田白山社前に陣を構え,蘆名の部将佐瀬源兵衛らと戦ったことが記されている寛文5年の村高668石9斗8合,家数28軒,竈29,人数は男85・女73(小田付組土地帳/会津風土記風俗帳1)化政期の家数28軒(新編会津)寛永5年加藤明成が稲田村のうち100石を若松城下の五之町の高巌寺へ寄進した(高巌寺文書)神社は白山神社寺院は曹洞宗福楽山万蔵寺若松県を経て明治9年福島県に所属同10年下台村と合併して橿野【かしわの】村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
稲田村(近世) 江戸期~明治8年の村名出雲国仁多【にた】郡のうち江戸期は松江藩領慶安元年検地帳によると,田畑38町余・村高422石余,百姓73人,寛文10年の検地帳では,田畑40町8反・村高403石余,「大数録」では村高480石,「天保郷帳」では512石余仙洞御所御料所の代官居住地で,古くから開けたところ「雲陽誌」に矢入明神・稲荷,高林庵が記されている明治4年島根県に所属同8年原口村と合併,稲原【いなはら】村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」