ケータイ辞書JLogosロゴ 井原村(中世)


大阪府>泉佐野市

鎌倉期〜戦国期に見える村名和泉国日根郡日根荘のうち長滝荘の北西に位置する(日根野村近隣絵図)天福2年6月25日の官宣旨に「井原里」と見える日根荘の立券の際,井原里の西にある春日神社関係の免田や元興寺領荘園は除外されている(九条家文書/図書寮叢刊)村名としての初見は,文暦元年12月2日の日根荘諸村田畠在家等注文案で「井原村」とあり,日根荘を構成する4か村の1つであったこの注文案には日根荘内諸村の荘官や地頭代らが署名しており,当村では公文僧覚暁・地頭代藤原義房の名が見える(同前)文永3年4月,九条家政所は日根荘雑掌慈蓮の子日根野(中原)盛経を当村預所職に補任した(日根文書/泉佐野市史)「中臣祐賢記」弘安3年5月19日条の正預中臣祐実廻文によると「和泉国井原一西辺名主・氏人等」の間で争論があったことが知られる(春日社記録3/続大成)延慶2年九条家は日野荘の惣検注を実施するが,同3年2月21日井原村荒野実検注文が注進されたこの時の井原村荒野は都合63町6反144歩,人宿南・寺林・小池尻・棒沢・手神林・笠松林原・青木林・道口などの字名が記されている(九条家文書/図書寮叢刊)応長2年2月日の僧良快請文には「和泉国日根庄内井原□(村カ)両職下司・公文」とあり,僧良快が当村の下司・公文両職を兼ねていたことがわかる(同前)前述の荒野は,西大寺僧実専,ついで実行上人が開発を請け負ったが進行せず,正和5年4月8日久米田寺が当村を除く日根荘の開発を請け負っている(同前)これより先,正和4年6月4日の源兼定起請文によると,源兼定および日根野盛治が百姓に乱妨を働き,実行上人の開発を妨害したとの疑いがかけられており,在地領主・住民らの抵抗があったものと思われる(同前)下って南北朝期の応安3年2月16日には楠木正儀が田代顕綱を「和泉国井原下司職」に補任しており,南朝の支配下にあったことが知られる(田代文書/泉佐野市史)なお,永和3年12月日の年紀をもつ春日神社の石灯には「泉州井原春日御宝前」と記されている(大阪金石志)永享3年9月28日の十二谷下池契約状には「自井原村并檀波羅蜜寺村」とあり,日根野領内にあった十二谷下池の水について,半分は井原村,4分の1は檀波羅蜜寺村,残りの4分の1は日根野村の支配と取り決めている(藤田家文書/泉佐野市史)また嘉吉元年6月19日の十二谷下池築堤祭文および文安3年6月11日の十二谷契約状にも同様のことが記されている(同前)延徳2年閏8月18日の唐橋在数書状によると当村は根来衆徒らのため押領されている(九条家文書/図書寮叢刊)日根荘を含む南和泉一帯は紀伊根来寺と和泉守護細川氏の争奪地域で,九条政基の下向する文亀元年頃に,当村は守護領に組み込まれて九条家の支配が及ばなくなっていた(旅引付,永正元年12月2日条)文亀元年8月20日には根来寺の支援をうけた佐藤惣兵衛が「井原村之内安松等」に放火するなどの争いが散見する(同前)当村には楠木氏の子孫という豪農食野氏が居住し,土地集積を行っており,当村内では大永5年12月23日の客内田地売券に見える「佐野井原アタラシ池之内」の田地10歩,天文17年6月11日の太大郎等連署畠地売券に見える「佐野庄井原之内」の畠地などを買得している(食野家文書/泉佐野市史)戦国期には佐野荘に含まれていたことが知られるなお,年月日未詳の松崎社縁起(藤田家文書/同前)には「井原荘松崎社者乃⊏⊐大自在天神鎮座也」とあり,当村は荘として見えている当村は現在の熊取町,泉佐野市上瓦屋・下瓦屋を中心とするあたりで,南海本線井原里駅(下瓦屋)がある
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381457
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ