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- 大泉荘(中世)とは
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大泉荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名能登国羽咋【はくい】郡のうち承久3年9月の能登国田数注文に,「大泉庄」が公田数200町で郡内最大の公田積を持ち,保延2年の立荘とあるのが初見(鎌遺2828)建武2年7月には,皇室領荘園能登国「大泉南庄」が,西園寺公重の家領として見え(柳原家記録),南北朝期初頭段階で,すでに大泉荘が,大海【おおみ】川流域の南荘,前田・大坪川流域の中荘,宝達川下流から相見川流域の北荘の3荘に分立していたらしいしかし室町期には,「能登国大泉庄」が皇室領を離れて公家領荘園となり,久我家の所領となっていた(久我家文書)大泉荘が解体した戦国期に,「押水三ケ(郷)」と見えるのは,従来の大泉南・中・北の3荘域を継承して,郷村の形成がはかられたことによる(高松光専寺文書)能登半島の基部で,東は宝達【ほうだつ】山系,西は日本海,南は加賀・能登国境の大海河,北は邑知【おうち】地溝帯南端部付近をそれぞれ限って位置し,現在の押水町のほぼ全域と河北【かほく】郡津幡【つばた】町河合谷地区・高松町南大海地区の一部を含む地域に比定できる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」