ケータイ辞書JLogosロゴ 大庭荘(中世)


大阪府>守口市

 平安期〜室町期に見える荘園名。茨田郡のうち。「遊女記」に「江河南北邑々処々分流向河内国,謂之江口,盖典薬寮味原牧掃部寮大庭庄也」とあるのが初見(朝野群載上)。掃部寮は宮内省の内掃部司と大蔵省の掃部司とを合わせたもので宮中の掃除・設営,儀式の設置にあたり,当荘からは当初人夫役を貢進していたが,のちには年貢の納入が主となったと思われる。弘安3年正月26日の六波羅下知状(押小路文書/鎌遺13845)に「掃部寮領河内国大庭御野雑掌与渋谷七郎二郎入道浄阿并茂重等相論当荘預所職事」と見え,当荘が大庭御野と呼ばれていたことがわかる。本文書によれば,茂重は弘安元年に当荘預所職に補されたが,公事を納めないだけでなく狼藉・濫妨を働いたため改易されたことから相論となり,茂重らの濫妨を止めるように命じている。また元亨3年4月日の掃部寮領大庭御野供御人等申状案(勝尾寺文書/箕面市史史料編1)に「掃部寮領河内国大庭御野供御人等謹言上」とあり,当御野は文武天皇の大宝年中に立券荘号されたといい,禁裏・仙洞の供御,諸神社の祭礼役を勤仕してきたが,仁治年中以後,土民が貧弊し,田畠を沽却するものが多くなり,買得したものが私領と号して狼藉を働き,現在では武家の知行となり,公役を勤仕できないとしている。なお勝尾寺は当荘の地1町を有していた。寛元4年10月日の勝尾寺住侶等申状案(同前)によれば,尼妙仏が「大庭地壱町,為後生,可進勝尾寺也」として寄進したものであるが,同年妙仏の死により,鴨氏と勝尾寺との間で相論があり,寛元4年12月26日の新三郎入道源二郎連署注進状(同前)に「大庭田者,可令寄進候,於彼地証文并手継等者追可進入候」とあり,宝治元年5月日の鴨氏女畠田寄進状(同前)に「副本券拾伍枚大庭分……壱町者為故妙仏西願等仏請燈油料,所奉寄」と見え,建長2年7月10日の勝尾寺重書等目録(同前)にも「大庭寄進田畠壱町証文十五枚并寄進状壱通」とあり,勝尾寺の所領となったことがわかる。なおこの妙仏・西願は仁治3年にも勝尾寺に阿弥陀三尊を他荘の田畠14町余とともに奉納しており,京都の町衆として活躍したようである。また弘安2年正月23日の奥付を持つ「諸寺略記」の剛琳寺の項に「河内讃良大庭郷」とあるのは,当荘のことかと思われる。建武4年7月25日の左兵衛督某奉書(押小路文書/大日料6-4)には「掃部寮領河内国大庭郷野内散所名土民等年貢抑留」と見え,光厳上皇は中原師香に寮役を全うすべきことを命じている。「園太暦」の貞和4年2月5日条に「掃部頭寮領宛給軍勢事」とあり,掃部頭中原師香は寮領の当荘を高師泰が兵粮料所として軍勢に宛行ったと述べたとある。次いで,応永19年6月19日の奥書を有する一切有部識身足論巻10(北野社一切経/大日料7-16)に「河内国茨田郡大庭庄長福寺住金剛仏子良忠令書畢」と見える。また寛正6年2月16日の京都市峰定寺鐘銘(日本古鐘銘集成)に「此鐘者河内国茨田郡大庭庄於広隆寺買得畢」とある。なお勝尾寺文書(箕面市史史料編1)の売券に見える当荘の字名に鉢尻・烏嶋・菅生野・太瀬野がある。当地には大庭関があるが,正平17年4月日の観心寺寺僧等申状案(観心寺文書/大日古)にその停廃に関して訴えがあり,永享10年3月22日の「法華寺殿国料船」に関する河上関務請文(春日神社文書/枚方市史6)には「〈大庭〉岩崎(花押)」なる者が他の関務を預かる者とともに署判している。また「経覚私要抄」の享徳2年正月8日条(纂集)にも「春日社四季大般若経料所河内国大庭関三部事」とあり,古市胤仙が関務を命ぜられている。なお明応2年に足利義材が畠山政長の要請により畠山義基を討つため河内に出陣した際の明応二年御陣図(福智院家古文書)では「大葉」と見える。江戸期には,荘内に属した村々を11の番別に編成したといい,大庭を冠した一から七番村のほか,八番村・九番村・南十番村・北十番村・下島村(十一番村)が大庭荘と称された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7381896
最終更新日:2009-03-01




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