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- 大畠村(中世)とは
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大畠村(中世) 鎌倉期~室町期に見える村名摂津国河辺郡橘御園のうち嘉元2年の浄土寺門跡寄進米上日記によれば,同年浄土寺門跡から摂津勝尾寺に寄進された橘御園年貢の一部として「一石六斗六升五合 大畑村分」とある(勝尾寺文書/鎌遺22062)南北朝期には当村をめぐる相論があったとみえ,「園太暦」康永3年8月26日条に「橘御園内大畠村事」が院評定で審理されたことが見えるが,内容は不明である応永年間には「摂津国橘御園内大畠村公文職」を国人芥河氏が押領,応永8年3月に浄土寺雑掌の訴えによって下地を返付すべき幕府の命令が出された(尊経閣文庫所蔵一条文書/尼崎市史4)比定地は未詳であるが,現在の伊丹【いたみ】市内か |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大畠村(中世) 戦国期に見える村名周防【すおう】国吉敷【よしき】郡仁保荘のうち天文元年11月の瑠璃光寺蔵鐘の銘に「大日本国防州吉敷郡仁保庄大畠村」(注進案13)と見える本鐘は今も瑠璃光寺に伝存し,総高90.8cm・口径(内径)37.6cmこの鐘銘によると,仁保荘内大畠村にあった光明寺のものとして鋳造され,大旦那が仁保荘の地頭領主仁保氏(平子氏,三浦氏とも)の興奉,大工藤原之国,住持慶益である光明寺は近世の早い時期に廃寺となっている江戸期の仁保上郷村のうちに比定される当村は仁保川の最上流域,支流岩倉川が仁保川に注ぎ込む辺りにある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大畠村(中世) 戦国期に見える村名越前国坂北郡河口荘のうち「大乗院寺社雑事記」文明2年7月14日条に河口荘郷々内村名が記され,兵庫郷に「大畠の村」と見える現坂井町上兵庫のうちに比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」