ケータイ辞書JLogosロゴ 貝塚町(近世)


大阪府>貝塚市

 江戸期の町名。南郡のうち。貝塚寺内とも貝塚寺内町とも称した。当町内部は西之町・南之町・北之町・近木【こぎ】之町・中之町の5町からなる。慶長15年卜半家2代了閑により,近世都市に再編されて成立。卜半家領。慶応元年から大坂町奉行支配。貢租免除のため無高。当町は卜半家の支配下にあり,当町を包囲する形で幅2〜3間の堀と土手がめぐらされて,東北から西南に紀州街道が貫通し,城下町と類似した構成であった(卜半家記録)。家数・人口は,延宝9年1,300軒余・7,500余,元禄9年1,536軒・7,110,寛政10年1,442軒・5,735,天保12年1,102軒・4,617,明治2年946軒・3,958,うち西之町172軒・667,南之町215軒・1,070,北之町372軒・1,469,近木之町62軒・241,中之町125軒・511であった(同前)。元禄年間頃から商業・金融業が発達し,延享3年には,田畑70〜80石,酒屋9軒,牛1,廻船11,渡海41,猟船35,米屋22軒,干鰯・木柴・米・魚・塩・青物・綿問屋計16軒,干鰯屋43軒,材木屋3軒,毛綿屋70軒,質屋45軒,薬屋9軒,小間物屋12軒,古道具屋9軒,両替屋5軒,旅籠屋16軒,油屋6軒,古手屋100軒,櫛仲買3軒,櫛挽90軒,肴屋10軒,䋆屋17軒,鍛冶屋40軒があり,泉南の中心都市として岸和田城下町と並ぶ存在であった(同前)。鎮守は感田神社。寺院は中之町に浄土真宗本派大派兼帯の願泉寺,同本派末寺尊光寺,願泉寺役僧の住持する浄土真宗本派正福寺・真行寺,同大派満泉寺・泉光寺,感田神社の宮寺宗福寺(明治3年廃寺),南之町に浄土宗大光寺末上善寺,近木之町に願泉寺役僧住持の浄土真宗本派要眼寺,日蓮宗本国寺末妙泉寺の計10か寺。願泉寺は金凉山と号し,貝塚御坊とも俗称される貝塚寺内町の中核的な寺院であった(全志5)。同寺は,本願寺蓮如が紀泉地方化導の時とどまって教えを説いた草庵の跡を,天文14年住民らの要請により紀州根来寺から右京坊(のちの卜半斎了珍)が住持として招かれ,同19年住民と協力し草庵を再興して板屋之道場と称し,同24年貝塚が大坂石山本願寺下の寺内に取り立てられて貝塚御坊と称されるに至った(同前)。明治9年の人口4,577。同14年大阪府に所属。同22年,貝塚西之町・貝塚南之町・貝塚北之町・貝塚近木之町・貝塚中之町はそれぞれ貝塚町の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7382103
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ