ケータイ辞書JLogosロゴ 倉殿荘(中世)


大阪府>吹田市

平安期〜戦国期に見える荘園名摂津国島下郡のうち蔵殿荘とも書き,後には倉殿名とも称した承徳3年4月22日の治部卿藤原通俊所領処分状写(壬生文書/吹田市史4)に「摂津国倉殿庄」とあるのが初見で,通俊は当荘を摂津杭瀬荘などとともに娘に譲ったものと思われる通俊の娘は権大納言藤原経実に嫁し,経定を生むが,久寿3年正月17日,経定は当荘と杭瀬荘を嫡子頼定に譲っており(同前),これ以前に当荘は通俊の娘から経実に相伝されていたことがわかるそして治承5年3月15日,頼定は当荘を子息頼房に譲り(同前),さらに頼房から高倉院の妃七条院藤原殖子に寄進されて七条院領となったようで,安貞2年8月5日の七条院目録案(東寺百合文書/同前)では,当荘は後鳥羽院の後宮で順徳天皇の生母の修明門院藤原重子に譲られているその後,弘安3年7月29日の七条院領目録案(同前)などによると,七条院領38か所は順徳天皇の皇子四辻宮善統に譲られたが,そのうち当荘を含む17か所は修明門院が相伝し,さらに亀山院,後宇多天皇を経て大覚寺統領となった建武2年7月12日の後醍醐天皇綸旨写(柳原家記録/同前)によると「吹田西庄同倉殿」が右兵衛督西園寺公重に給付されているが,観応元年6月12日の光厳上皇院宣(妙心寺文書/大日料6-13)によると,当荘は仲荘などとともに甘露寺中納言隆長の遺領として,この年北朝光厳院から隆長の子息甘露寺藤長に安堵されているその後,戦国期まで当荘は甘露寺家領であったらしく,「守光公記」永正14年9月5日条所収の文亀2年正月10日綸旨は当荘や加賀国大桑荘などの甘露寺家領の証文が明応元年11月に盗難にあったため,改めて安堵を加えられたものであり,「元長卿記」永正4年正月6日条には当荘から甘露寺元長のもとに若菜が到来した旨が記されているなお永徳2年12月15日の足利義満御教書(鹿王院文書/吹田市史4)によると義満は普明国師の管領する宝幢寺に「吹田西庄内倉殿地頭職」を寄進しているが,それを応永18年3月17日に足利義持,永享7年5月16日に足利義教,さらに文明10年5月28日には足利義尚が「倉殿地頭方」を各々同寺に安堵している(同前)また文安元年5月9日紀盛行寄進状案,同年5月10日・同年8月28日の細川持賢安堵状(藻井泰忠氏所蔵文書/同前)などによると,倉殿を含む吹田西【すいたにし】荘新開窪跡は紀盛行が拝領していたが,これを将軍義教を祀る中嶋崇禅寺に寄進し,管領細川持賢がこれを同寺に安堵している当荘では半済が行われたらしく,寛正2年12月26日の中嶋崇禅寺領目録(崇禅寺文書/同前)には「倉殿名半済法分納本役之事」とあり,先の紀盛行も半済給人かと思われるこの寺領目録には倉殿名と見えるが,実質的には荘園で20の名から成り,本所甘露寺家と半済の結果,半済分10名が崇禅寺領となり,年貢米9石弱や小麦などが同寺に納入されているすなわちこの頃,当荘からは本所甘露寺家・半済方崇禅寺・地頭方宝幢寺に年貢公事を納入していたことになるなお,当荘(倉殿名)と吹田西荘は重なる地域かとも思われる当荘は,吹田西荘内の倉敷として設定された名から発展したものかと考えられ,その地域は崇禅寺領目録などから見て,吹田市南部から中部にかけて散在したものと思われる吹田西荘は現在常光円満寺のある吹田市元町を中心に西の庄町あたりとも推定され,当荘もその付近と思われるが詳細は不明
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7382904
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ