ケータイ辞書JLogosロゴ 四條畷(中世)


大阪府>四條畷市

 南北朝期から見える地名。河内国讃良【ささら】郡のうち。貞和3年12月北朝方の高師直は大軍を率いて河内に向かったが,翌4年正月5日当地で南朝方楠木正行がこれを迎撃して戦いが起こり,四条畷合戦として知られる。この合戦の模様は「太平記」巻26に詳しく伝えられている。同書によれば北朝方は,武田伊豆守を当地に,白旗一揆を飯盛山に,大旗一揆を飯盛山東方に,佐々木道誉を生駒山に配した。一方南朝方は,四条隆資が紀伊・和泉の野伏2万を率いて飯盛山に向かったが,楠木正行は弟正時らとともに精兵3,000騎で四条畷から一気に師直の本営を突いた。正行は奇襲には成功したが,師直を討つには至らず後陣を佐々木道誉に襲われ力尽きて自刃した。敗北後南朝方は北畠親房が和田助氏に軍事力の建直しを命じているが,この勢いに乗じて師直は吉野(現奈良県吉野郡)を陥落させ,村上天皇は賀名生【あのう】(現奈良県吉野郡)を行宮とした。なお四条畷の主要合戦場となったのは,旧四條町(現大東市)の中央地点の「四条の丁」の辻から北条までであったという(府史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7383494
最終更新日:2009-03-01




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