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- 南町(近世)とは
「南町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 南町(近世) 江戸期~明治9年の町名江戸期は三田【さんだ】城下町の1町西は屋敷町,東は東三田村,北は本町,南は足軽町に囲まれた地域明治8年までは南町東組と同西組に分かれていた文化2年の家数61・人数238,惣年寄に渡す宗旨入用666匁となっている同年の東組の家数29・人数78うち借地8・借家12組頭西田屋伊兵衛(ぬりもの職)・福島屋伊兵衛(刻たばこ商),年寄鍵屋重兵衛同3年の書上帳によると東組の家持9・借地人8・借家人13,糀商・ぬりもの職・畳職・刻たばこ商・せんべい商・まんじゅう商・つき米商・左官職・髪結職・大工職・日用稼などがあった特に日用稼ぎが約半分近くを占めている寛政7年の東組歩帳によれば家持としては内神屋惣兵衛・塩田屋源蔵・島屋善五郎などの名が見える地子として丸数17丸半,歩は882歩5厘,米〆2石9斗8升2合である(40歩以上は1丸,20歩以上40歩までを1半,1丸が本役,1半は半役,必ずしも面積によらない)安政2年以降の年寄として当町には長坂屋市兵衛・鍵屋重兵衛がいた鍵屋重兵衛は町内の豪商であり,火薬銃砲の商売や金貸しなども行っていた(三田市史)寺院は,浄土宗大音山正覚寺・日蓮宗円光山妙三寺妙三寺は藩内唯一の日蓮宗の寺である明治初年~同8年三田を冠称同9年三田町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南町(近世) 江戸期~昭和41年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南町(近世) 江戸期~明治9年の町名柳川城下の1町寛政年間の絵図には,外小路の御花畠(藩主立花氏邸)の西に東西に流れる堀割が見え,この堀割の南岸沿いに当町がある享保11年12月孫六に渡船業を許可(郡役所日記)文化2年1月26日当町から出火(用人日記)伊能忠敬の「測量日記」の文化9年10月14日の条に,「沖ノ端組南町,但左汐入川に添て片側町也,右に自身番あり,北印残五町一十九間,右に一向宗西福寺」とある有明海に注ぐ沖端川河口近くの江湖に設けられた二丁井樋で,水かさを調整して導水する堀割は汐入川であり,この堀割の両岸がそれぞれ北町・南町である明治9年沖端町の一部となる現在の柳川市沖端町のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南町(近世) 江戸期~明治9年の町名久居城内十町の1つで,武家屋敷地久居城(陣屋)の東南に位置するかつて野辺の畑地であったが寛文10年藤堂高通が久居築城の際に町割された町の東南に町人地と結ぶ五丁目口門を設け,南の高台には天明9年藩主の隠居所として巽岡御殿を建築,歌人・茶人の往来も多かった慶応2年久居藩校句読所を巽岡に置いた町の南角には藩牢屋・代官倉を設けたが,のちに代官倉は廃止となる安政年間には武家屋敷25軒があったが,廃藩後離郷する人が多く,明治5年には1反当たり11両で売り出された(久居市史)同9年東鷹跡【ひがしたかと】町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南町(近世) 江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ文禄年間までに成立天明6年には地売酒造人2人が居住し,元治元年にも酒蔵3つがあった現在の伊丹市伊丹3~5丁目あたり... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」