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牟礼村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
牟礼村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
牟礼村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国上妻郡のうち無礼村とも書く広川山地が段丘をなし,長延川と広川が合流する付近に位置する地名の由来は,朝鮮の古語ムレ(山)によるといわれている(下広川郷土史)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領川瀬組に属す天正17年の検地では田畑3町(家勤記得集)村高は,「元禄国絵図」163石,「在方諸覚書」の古高205石,「天保郷帳」197石余,「旧高旧領」453石余曹洞宗大聖寺は貞和3年の創建で,盛時には境内に12坊があり,6か寺の末寺があったと伝えているまた,境内に矢加部筑前守久盛夫妻の墓碑がある矢加部氏は山下城主蒲池氏の家臣で川瀬城に拠ったが,矢加部大学頭国広のとき天正9年山下城の陥落とともに廃城となったという(稿本八女郡史)元和9年古賀組の大庄屋稲員孫右衛門安直は公儀の許可を得て,地内狐塚に塘を築き,また元禄元年には安則がこの塘を改築した(家勤記得集)天満宮は字裏山にあり,境内に白山神社・若宮神社がある文化4年の本田17町7反余・開田2町6反余・畑田2町1反余・畑3町4反余・居屋敷3反余,春免高388石(農政農民史料集)天保初年庄屋園田武右衛門は自宅で寺子屋を開き,子孫が受け継いで明治初年まで続いた明治9年広川村の一部となる現在の広川町広川の一部... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
牟礼村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
牟礼村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
牟礼村(近世) 江戸期~明治8年の村名牟連村とも書く豊後国大野郡のうち木ノ元山南西麓,大野川右岸の台地上に位置する文禄3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年からは臼杵【うすき】藩稲葉領成立期は不詳であるが,百枝【ももえだ】村の枝村か村高は「正保郷帳」「見稲簿」「天保郷帳」には見えず百枝組に所属「旧高旧領」では93石余元文4年牟礼正福寺観音開帳(温故年表)文化11年藩主稲葉雍通が廻郷のとき,当村堂ノ辻で遠見,百枝村へ向かう(温故年表録)明治4年大分県に所属同8年百枝村に合併現在の大野郡三重町大字百枝のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」