ケータイ辞書JLogosロゴ 青野原新田(近世)


兵庫県>滝野町

江戸期〜明治初年の村名播磨国加東郡のうちもとは西国三十三か所25番札所清水寺から26番札所一乗寺への巡礼道が通るだけの荒漠とした原野で,享保8年河高【こうたか】村庄屋大久保六郎兵衛(政重)が幕府の許可を得て開発した代官見立新田幕府領村高は,元文2年新田検地帳534石余,「天保郷帳」1,057石余,「旧高旧領」1,185石余なお「天保郷帳」には右肩に「加東郡・加西郡」の注記がある延享2年の小前出入の際の申渡覚によると家数150,天保9年の村明細帳では家数261・人数1,216開発前は,周囲21か村の入会秣場であった享保8年幕府は,当地の開発を許可するとともに普請奉行千種清右衛門を派遣し水路工事にあたらせた水源を河内村の奥に求め,新田まで8km余もの山すその水路は天下溝と呼ばれ,他村の水利を侵害したので水論が頻発した田畑の開墾は六郎兵衛を中心に,備前国西大寺や播磨の各地から入植者を募って始めた元文2年の新田検地では,反別82町,高534石が打ち出され,年々順調に進んだ新田の支配は,喜市郎・藤五郎・庄兵衛の願主3家が握った願主たちが徴収した加徳米,村小入用などをめぐって開発当初から小前出入が続き,そのため願主家は次第に没落した鎮守は稲荷神社寺院は浄土真宗王後山了徳寺同寺はもと鍛冶屋村にあったが,新田開発の際,その寺屋敷が貯水池(了徳寺池)に使用されたため,当地内に移転したそのため檀家のほとんどは現在の加西市鍛冶屋町にあるほかに観音堂・庚申堂がある土地高燥で水利の便に乏しかったため,かつては揚水用のはねつるべが林立,「播磨高岡兵庫の湊,丘に帆柱立ち並ぶ」とうたわれた畑地が多く甘藷や大根の栽培に適し,また良質の粘土を用いて瓦の製造が盛んだった瓦の製造技術は,享保年間,備前の西大寺から移住した農民たちが伝えたという明治初年高岡村と改称
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387216
最終更新日:2009-03-01




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